エッセイ


風景の中の作家・風景の中の作品

投稿日時:2018/05/27 07:11



  障子あけて置く海も暮れ切る


 自由律俳句の尾崎放哉の一句。東京帝大を出て保険会社の管理職にありながら酒で身を持ち崩し、会社、親族や妻を捨て放浪した挙句、極貧の中、小豆島の寺男として結核により41歳の短い生涯を閉じたこの俳人の句の向こうに拡がる風景を想像しないわけにはいかない。同じ勤め人として酒の過ちを繰り返す度に放哉を思い起し、その終焉の地をいつかは訪ねてみたい、と念じつつ数十年が経ってしまった。

 離職して半年、曲りなりにも勤め人としての義務を全うした時点で、挫折の危機にいつも心の支えとしていた放哉の「最期の風景」を訪ねる気持ちが膨らむのもわりなきことではなかろう。今まで縁の少なかった中国地方を、広島、尾道、倉敷と東に辿りながら岡山よりフェリーで小豆島へと向かう。原爆の犠牲を今も伝える街・広島、水道に沿った斜面に今も時代を遺す街・尾道、そして紡績の栄華を白い土塀に留める街・倉敷と訪ねながら、この間一冊の本を常に携行しながら再読していた。放哉を描いた吉村昭の小説 『海も暮れきる』 である。

 吉村昭は旧制高校時代に肺を病み、生死の間を彷徨う治療・療養を行った。病気のために旧制高校を中退し失意の中で巡り合ったのが俳句で、身動きのとれない療養中に句作に励んだことから、同じ病気に斃れた俳人・放哉に興味を魅かれていた、と 『海も暮れきる』 の「あとがき」に記している。日誌や書簡等の史料より再現される、吉村昭の描くところの放哉は、神経質だが酒が入ると急に威圧的になり他人を罵り、それ故に親しい友人を失っていく。酔い醒めて痛烈な自己嫌悪に陥り、更に酒へと逃避してしまう。…酒に溺れかけた人間なら誰でも経験した事のある悪循環の結果、会社での人間関係は破綻し、借金により親族の信頼を失い、そして最愛の妻を自ら拒絶した。

 こうした自己破滅型の人間の典型のような放哉の句を読むと、そこには絶望の彼方にある諦念と、何処か超越したような一片の清涼がある。そして自らが陥った「孤独」の中で、孤高と寂寞が、そしてエゴと親和が鬩ぎ合っている。放哉に似た性向を持った私自身が何とか勤め人を全うできたのも、「踏み外した先」の放哉を見ていたから、であろうと思うのである。

 『海も暮れきる』 はそんな放哉の最期の8ヶ月、すなわち小豆島を終焉の地と定めて渡来してから最期までの放哉を、活き活きと描いている。同じ荻原井泉水の門下である素封家の井上一二を頼って京都よりこの島に押しかけ、更に井上の紹介で、やはり俳人でもある西光寺・住職の杉本宥玄により西光寺別院の「南郷庵(みなんごあん)」の寺男として暮らす。この二人に加え、隣家の石工の岡田や、漁師夫婦、特に妻のシゲといった人たちの温情に預かりながらも、極貧に馴染めず井泉水他の俳句仲間に無心をしたり、その金で再び酒に溺れて人を罵り蔑んだり、自暴自棄になって入水自殺を試みたり。多分、放哉の短い生涯は、この8ヶ月の繰り返しであったのだろう。つまり、この8ヶ月に集約されている。

 このような極貧の中で放哉の身体は愈々結核に蝕まれ、腸や咽頭カタルの痛みが耐え難く酷くなり、最期はシゲとその夫に看取られながら庵にて淋しくこの世を去っていく。その終焉の家、南郷庵は今も「小豆島尾崎放哉記念館」として残されている。とはいえ、旧い庵は台風で倒壊し、再建後も白蟻被害で取り壊されて、現在の建物は三代目となるらしい。造作はほぼ同様に再建されているらしく、居間の東側の小窓から遠く瀬戸内海が見える。


 海が少し見える小さい窓一つもつ


 その部屋である。初夏の良く晴れた日の昼下り、その窓から静かな瀬戸内海の水面が煌めいていた。南郷庵の奥手には谷合に拡がる西光寺の墓所があり、その高台に放哉の墓がある。放哉は没後、一旦土葬され、彼が縁を切ってきた親類の手で一年後火葬にされ、実家のある鳥取と当地に分骨されたという。因みに放哉の妻・薫は、電報を受けてすぐに小豆島に駆け付けたものの、放哉の死に目には間に合わなかった。宥玄は放哉に「大空院心月放哉居士」の戒名を贈ったが、井泉水から流浪の俳人には相応しくないと言われ「大空放哉居士」と改めた。いずれも淋しい逸話である。

 放哉の墓に手を合わせる。感謝のことばを心のなかで呟きながら。




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