エッセイ


そしてラジオな日々

投稿日時:2018/04/07 20:58


 住まいといすみ市岬町の書圃との二重生活を始めて二度目の冬を越した。会社勤めの間は金曜日か月曜日に休みを取るか、週末の連休に一日加えて、二泊三日、三泊四日と慌ただしく往き帰りしたものだが、昨秋にフルタイムの自由人となって以降、一週間おきに月二、三回程、書圃に逗留するようになった。何故、一週間を超えないか、といえば東京自宅傍の実家に棲む独居の母の認知症がそれを妨げるからである。時として不測の事態に滞在を中断して帰宅することさえある。

 書圃にはテレビを置かない。受信料を二重に払うのが嫌だからである。それ以前に里山の中の書圃にアンテナ設備を設置する必要があるが、書庫兼書斎なのだから敢えてしない。タイムリーな情報を得る時はラジオを聴く。ニュースも地震速報も天気予報も高校野球も国会中継も皆、ラジオである。この時代錯誤、古色蒼然とした生活が宜しい。我が家にブラウン管の白黒テレビが登場したのは昭和39年、東京オリンピックを見るためである。つまり、小学校1年生、昭和39年以前の生活が戻ってきたことになる。生産労働力たるべく義務教育により規律正しい生活を強要され始めた将にその時期に相当する、というのも実に奇遇なことだ。つまり、テレビのある生活は生産人口育成過程の入口と共に始まり、そしてそこからの引退と共に終わった、ということになる。

 しかし書圃に在る時も然程の不便は感じない。無論、本を読んだり執筆したりするために此処に時間と空間を割いている訳だから当然のことかもしれないが、読書に疲れた時や飲食に勤しむ時は、音楽でなければラジオを聴く。書圃には時を忘れるために時計も一つしか置いていないが、ラジオの時間にもやはり時間に縛られない自由さがある。金曜日の朝8:05からはNHK第一の「すっぴん!」を聴く。高橋源一郎がパーソナリティを担当しているからだ。特に「源ちゃんのゲンダイ国語」が面白い。今まで読んだ事のない本に巡り合い、既知の作品には自分とは違った読み方を教えてくれる。阿曽山大噴火 『裁判狂事件簿―驚異の法廷★傍聴記』 は涙を流して笑い転げながら聴いた(すぐにネット書店で同書を購入したのは言うまでもない)。石牟礼道子の逝去に際して取り上げられた 『苦海浄土』 の時には書圃より著作を取り出し、源ちゃんの朗読を活字に追いながら、共にその死を悼んだ。

 正午のニュースの直後に掛かるあの「ひるのいこい」のテーマソングは何十年変っていないのだろう。あの曲を聴くと、野良仕事の手を休めて畦に新聞を拡げ、お握りを頬張っている農家の老夫婦の眩しい姿が彷彿としてくる。その後の「旅ラジ」は放送車を繰って全国各地の街おこし、村おこしを紹介する番組だが、これだけ多くの人々が智慧を凝らしながら地域コミュニティのために活動しているのか、と感心させられる。訪ねたことのある地域が出てくると、その風景が目に浮かんでくるから不思議だ。

 ラジオの魅力とは視覚を拘束されない分、想像力が掻き立てられる点にあるのだろう。中学・高校時代に試験勉強をしながら聴いたあの深夜放送。どれほどの「泣き笑い」を繰り返したかを思い出す。あの時の生活習慣は未だに私の中にこびり付いているようだ。そういえば、私自身、そんな深夜放送の熱心な投稿者のひとりでもあったのだ。聴取者の想像を掻き立てるような投稿を書くことに腐心していた、そんな中学生だった。

 かくしてラジオな生活も悪くない。離職した身にとって一番有難いのは朝6:30からのラジオ体操である。戦前は銃後の戦闘力増強、戦後は生産現場における効率の向上のため、というキナ臭い歴史を持つラジオ体操ではあるものの、不規則で運動不足になりがちな生活にラジオのもたらしてくれる有難い「日々の習慣」であり、心身共に清々しい一日の入口へと導いてくれる。ラジオ生活が嵩じて、4月からは「ラジオ英会話」にも復帰した。1日15分のレッスンではあるが、錆付いた英語のブラッシュアップには欠かせないツールだ。

 かくして書圃の生活にラジオは浸潤しつつある。とはいえ50年に亘るテレビ習慣が抜けるものでもない。テレビはないがポッドキャストを使ってPCのモニターにネットTVを投影して見たりして、その欲求は満たすことができる。在宅中に観たい番組を録画しておき、書圃に持ち込んだブルーレイで再生して観たりもしているが、それで十分なのだ。此処にくれば、スマホもそうだがデジタル映像の世界に溺れながら漫然と時を浪費する生活から辛うじて逃れ得ている、といえるのかもしれない。

 竹林に囲まれた里山の書圃での生活を、「文字と言葉の世界」に没頭するための時間と空間、として設計することができた歓びは、果たして大きいのである。



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