エッセイ


誰も知らない ― 岬町こと始め ⑥

投稿日時:2017/06/14 16:46


 建築開始からほぼ半年を経て、いすみ市岬町の書庫兼書斎が完成した。晩秋にT建築会社から完成引渡を受けると、東京から月1回は週末、現地に赴き「設営」を始める。先ずは電気、ガス、水道、そして最小限の家電。照明、空調、ネット環境、冷蔵庫、洗濯機(受信料を二重に払うのがいやだから、テレビは置かない)。次は、必要最低限の食器、工具、雑貨。そして、倉庫に預けたままの家具類を搬入する。これで、ようやく落ち着いて寝食が叶うことになる。そして本命の、蔵書だ。先ず、倉庫に預け置きの、単行本、文庫、新書、洋書、全集、そして和洋問わず大判の美術本。これを、備え付けに誂えた書庫の棚の高さを調整しながら一箱一箱と整理していく。次に、東京の自宅を埋め尽くした蔵書と、椅子等の家具の移送。これらを整理し都合百箱以上の段ボールが空になった。

 今まで、自分で買い求めた蔵書をまとまった場所で数えたことがなかったが、書庫にとりあえず収めた段階で、概算してみると約3,000冊。未だ、執筆に必要な本は東京の書棚に残してあるので、それを含めればほぼ4,000冊というところか。それにしても、と思う。アルフレッド・ジェラールが帰国後ランスで収集した農業関係の本は23,000冊と言われている。事実、彼は実家の3階建てのパン屋を、これらの蔵書を収蔵するための図書館に改装したほどである。更に、私が大学生時代に通いつめていた「大宅壮一文庫」に至っては27万冊というから、上には上があるものだ。でも、私にはこれだけの蔵書で十分である。
 家内の整理が一段落ついたところで、玄関先に木の表札を掲げる。
     「書圃 唐変木」
 自らの名字にこれを冠したのは、もしこの書庫の主がこの世から去る時あらば、これらの蔵書とともに竹林の私設図書館として活用して欲しいという心積もり、である。「書圃」とはほぼ「書林」と同じ意味で、本が沢山ある場所を言う(「書林」がよく出版社に冠されることが多いのはそのような理由のようだ)。自生的な「林」であるよりも、心の土を耕すことで実る田圃の稲たる蔵書であって欲しい、との願いからかく名付けることとした。
 さて、これで平穏な田舎暮らしが始まる…かと思いきや、道程はそう平坦ではない。先ず、ごみの問題がある。新築家屋の固定資産税の査定にやってきた市の職員にごみの話しを訪ねてみると、住民票を移して市民となっている訳ではないので、市の行政サービスというよりは、まずは地元の自治会に加入して、共用のごみ回収箱を使わせてもらうことが一番の近道だろう、という。ごみ袋自体は、回収費用を含めた価格で、スーパーで既に購うことができるため、あとは自治会が管理している「ごみ回収場」の使用許可を得る、ということである。
 そこで早速に、件の寿司屋の主人に相談してみれば、父親が地元自治会の世話役をしているので、というので聞いてもらうことにした。自治会の「区長」(ここでは自治会の単位が「区」となっている。決して東京23区の区長を想像してはならない)さんが言うには、当地に越してきた移住者とは異なり、ウィークエンダ―(住民票を移さず、週末だけ訪ねてくる「別荘民」)からは自治会費を徴収していない。私に払う意思がある、といっても、他のウィークエンダ―との公平性の問題があるので、自治会内で対応について改めて協議させてもらいたい、という。つまり、一人から徴収することになれば、他からも徴収しなくては不公平になる、という判断だろう。他のウィークエンダ―達は、殆どが自家用車を利用しているので、帰宅の際に滞在中のゴミを自宅に持ち帰る習慣となっているらしい。
 私は横濱に居住していた際も、率先して自治会活動に参加していた経験があり、自治会費を支払う意義というものは理解しているし、生活していく上で、地元のコミュニティへのある程度の参画は必要だと割り切っている人間だ。だが、寿司屋の主人の話しでは、それほど単純なものでもないらしい。例えば、都心部では既に見られなくなったが、冠婚葬祭への伝統的共同体(「ムラ」)の関与の仕方(強要)がある。自治会員の婚礼や葬儀には必ず参列し祝儀・不祝儀を欠いてはいけないし、祭礼の際にも率先して「担ぎ手」となる覚悟が必要なのだ、という。
 実は、と主人は言う。父が家を建ててこの場所に来て三十年にもなるのだが、未だに彼らでさえ「余所者」扱いされている、のだという。自治会も、完全に生え抜きの地元農民による「第一組合」と、余所者で構成される「第二組合」に別れている、という。この話しを聞いて、確かに伝統的共同体の紐帯というものには想像を超えた強靭さと排他性があるものだ、と思った。子供の頃、横濱の片田舎で育った私自身にも、戦後二十年を経た頃の幼少時でさえ、町内会の「勤労奉仕」なるものに父母が徴用されていた記憶が蘇る。
 こうした顛末で、2~3日の滞在で発生するごみについては都度、東京に持ち帰ることにした。寿司屋の主人の説明では、この問題は、住民票を当地に移さない限りは容易に解決しないように思われる。…とはいえ生ごみまで帰路の電車内に持ち込むことは流石に気がひける。結局「堆肥コンポスト」を購入して、生ごみは可能な限り当地で処理することにした。
 勿論、それ以外の不燃ごみ、生活ごみも極力減らす努力をしなければならない。滞在中の食料については、可能な限り東京の自宅で調理をして持参するようにするか、ごみの少ない素材で大量に作り置きできるものを選ぶ。過剰包装を断る、あるいはスーパーで包装を破棄してくる、といった具体策だ。そもそも、当地では物質的な生活と距離を置き、贅沢な食生活を回避する目算だったのだから、それを徹底するだけのことなのである(かくして、唯一の食べる楽しみは、件の寿司屋、ということになった)。
 このようにして、この辺鄙な土地のセカンドハウスでの生活態度がひとつの方向性に収斂にしていくいくにつれ、ふと、近隣に訪れた和風アーミッシュの生活こそ、最も今ある環境に適応し、理に叶ったものなのではないか、と思うに至ったのである。「郷に入れば、郷に従え」の譬え…その通りなのかもしれない。
 かくして、都心を離れ、ひとのこころも変遷するものであろうか。
                                                         (了)


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