エッセイ


つつましき生活のせせらぎ―東中野縁起⑩

投稿日時:2013/01/26 04:30


 東中野駅東口を北側に出て商店街を暫く進み右手に坂を下ると、今はツインタワー・マンションの建つ場所に「日本閣」があった。この道の先は神田川を渡り、その向こうはもう新宿区北新宿、いやはや味気ない住所になった。先にご紹介した旧柏木五丁目である。
 橋の手前を左手に折れて川沿いに暫く北行すれば我が母校、中野区立第三中学校がある。中央線からも望めるその広い校庭は神田川に面し、懐かしき校歌の冒頭にも「明るく広き武蔵野の/紫におう神田川」とある。どうでもいいことだが、この「紫におう」とは一体何だろう。もしかすると春になれば駅の線路脇の土手を彩る「諸葛菜」が、神田川河畔にも群生していたのかもしれない。
 過日、四十年ぶりにこの通学路を歩いてみた。橋を渡って柏木に入ると、昔はそれこそ南こうせつの「神田川」の世界が広がっていたものだった。壁色あせて崩れ掛かったモルタルの二階建アパートが川沿いに軒を連ね、それこそ悲しい色の夕暮れになると、洗面器に石鹸箱とタオルを入れた若い二人が肩寄せ合って銭湯に向かう姿を、学校帰りによく目にしたものだ。
 実は、この橋の界隈はよくTVドラマの撮影場所になっていた。「太陽にほえろ」などのアクション・ドラマのロケが多く、翌日になると「裕次郎を見たぞ」というのがクラスの話題をさらっていた。しかし、白亜の殿堂「日本閣」が姿を消した今、すっかり様子は変わってしまった。華やかな結婚式場とその裏手にある貧しくつつましい生活の対比が失われてしまい、いまや橋の周辺には小ざっぱりとしたマンションが立ち並ぶフツーの住宅街へと没個性一色に塗りつぶされてしまった。
 戦後の一時期、この柏木辺りのアパートにはそれこそ売れない作家達が爪に火を灯しながら生活していた。
 柴田練三郎は、慶応の支那文学科を卒業後応召し、乗船していた輸送船が被弾沈没し海上を彷徨う半死半生の経験を経て、戦争直後の売れない作家時代をこの柏木の借家で過ごした。学生時代に結婚した妻は結核で療養所におり、その医療費と娘との生活費を絞り出すようにカストリ雑誌の売文で糊口を凌いでいた。
 水上勉は、戦前の柏木のアパートでの年上女性との砂を噛む様な同棲生活を『わが愛別』にこう記している。

 「たぶん昭和十五年だったと思う。東中野の日本閣のうらの橋をわたってすぐの柏木五丁目のアパートにいた。彼女はこのアパートの住人で、ぼくより三歳上だった。ぼくの報知新聞の給料はぴいぴいだった。酒を呑むので、それに同人雑誌にも加わっていたので、いつもカラケツの生活で、口先だけ文学文学といっていた。栄養失調がたたって、肺患もぶり返していた。」

 彼女は同じアパートに棲む勤め人で、いつしか水上の生活の面倒を見るようになり、彼の部屋で同棲を始める。軍国主義の靴音喧しい時代の自堕落な生活はそれでなくとも周囲から冷たい目で見られたが、やがて彼女は水上の子を身籠り男の子が生まれる。彼女は男の子が一歳を迎えると、アパートの世話役の口利きで「明大前のうどんやさん」に、その子を養子に出す。そんなギリギリの底辺の生活を支えたのも、この柏木のアパート、であった。
 坂を下る途中から三中に向かう道の左手の切通しの上に、平屋の瀟洒で趣味のいい家があった。文学などには全く縁のない中学生だったが、それが芹沢光治良という有名な作家の家だということは先生に教えられていた。美しい花を咲かせる薔薇棚に手を入れる上品な老人の姿を、通学時に偶に目にすることがあった。しかし、歩み巡らしてみると、その家も今は建て替えられて、切通しの見慣れた花崗岩のブロックに、その家と主の面影を偲ぶばかりである。
 こうして街は時代とともに姿を変え、残るのは人の記憶の中の街のみである。しかしそれは、それぞれの人生の喜怒哀楽とともに、決して色褪せることはない。(「東中野縁起」了)



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