エッセイ


郷愁へと線路は続く―東中野縁起⑨

投稿日時:2013/01/08 23:59


 さて、こうして多くの文学者が集った東中野だが、彼らの作品に登場する東中野に、やはり一直線に真西へと延びるこの線路の印象が強く焼き付けられるのは、シリーズ2でご紹介した椎名誠に限られたことではない。
 田山花袋の『東京の近郊』には大正初期の中野周辺の様子が描かれている。
「新宿を出て少し来てから立川までの間の鉄道線路が一直線であるといふことは名高い話である。柏木停車場あたりから眺めても、いかにも真直ぐで、殆ど見通しがつかない位である。その線路の上に、秋は白い雲などが浮かんでいる。」
 と見る者を捉えて離さないこの風景を見事に描いている。先にご紹介した通り、「柏木停車場」が東中野駅に改称するのは大正6(1917)年のことである。
 東中野駅周辺の描写も多い。犬養道子は犬養家の回想記でもある『花々と星々と』で昭和初期の駅の様子をこう描写している。
「十分にいちどくらいの悠長な間隔で、がらがらにすいた電車が走ってくる。『ひィがしなかのォ、ひィがしなかのォ』二度ばかり間のびした声を張りあげると、駅員はたちまちどこかへ消える。駅も世の中ものんきなものだった。」
 この一節に続き、昭和10(1935)年に迂回路の開通によって封鎖された桐ヶ谷踏切(現在の駅東側)が登場し、更にその先、落合へと続く商店街の様子が描かれている。この道が早稲田通りと交差する左手前が犬養家の邸宅であった。
 黒井千次は高校時代に当地に棲み珈琲の味を覚えた、昭和30年代初頭の東中野駅前の喫茶店の様子を『中央線沿線の月』の中でこう書いている。
「山手通りが中央線を陸橋で越える少し手前、坂を登り切ろうとする左側に、『サントス』という店があった。(中略)もう一軒は、東中野駅のすぐ線路際にある小ぢんまりとした『モカ』である。柵にそって一、二本の樹木が立ち、その蔭に隠れるようにして古びたドアがある。」
 この「モカ」という喫茶店は、私の記憶の中にもその古びた残影が蘇る。
 さて、話を「線路」に戻そう。真西に一直線に延びる線路は、やはりある種の郷愁を誘うものと見える。
 臼井吉見の『安曇野』は、新宿中村屋の創設者 相馬愛蔵、黒光夫妻を中心とした信州安曇野の群像を描いたものだが、まさにこの中央線こそ、その信州へと誘う軌道である。
 この作品に、中村屋で十五年、和菓子部の職長を務めた新井という社長が経営する「黒光製菓」の工場が登場する。
「戦後の復興を誇る東中野の日本閣に沿った坂道を右に下って、小さな商店街をしばらく行くと、左側に四百坪近い地を占めて、空いろのペンキで塗装された、見るからに清潔そうな製菓工場の大きな二棟が、あたりを圧している。」
 家族主義の紐帯で結ばれた中村屋の元従業員の一人が、黒光の名を冠した中村屋専属工場の立地として選んだのが東中野であった、という心理的な背景も見えてくるような気がする。
 そして最後にご紹介したいのが、井伏鱒二である。彼は早稲田大学文学部を失意の内に中退した直後の二十五歳の時、早稲田近くの下戸塚で関東大震災に被災した。倒れかけた下宿を着の身着のままで飛び出すと、故郷広島県深安郡賀茂村への思いたち難く、西へと歩き出した。
 道すがら人に尋ねると、立川まで歩いて行けばその先の中央線は動いている、という。立川から塩尻経由で名古屋まで出れば故郷広島に戻れる。『荻窪風土記』に彼はこう記している。
「中央線の大久保駅まで歩いて行くと、街道に暴動連中の警戒で自警団が出ているので、大久保から先は線路伝いに歩いて行った。(中略)東中野のプラットホームに上がってみると、猫車のような小型車にぼんやり腰をかけている中年男のほかには、人の姿は一人もなかった。その男に、立川駅まで行けば汽車が来るといふのは本当かと訊くと、黙ってこっくりした。」
 こうして、井伏鱒二は、どん底の失意の中、故郷に辿りつきたい一心で、西へ西へとただ真直ぐに続くこの線路の彼方へ、とその歩みを進めていき、立川までの21.7キロの直線区間を、踏破したのだった。
 これを読むと、東北の匂いの詰まった上野駅を、何故か思い起こす。



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