新進作家達が東中野西口北のレストラン「モナミ」に集っていた昭和27(1952)年、同じ西口の南側を出たすぐ傍にあった「東中野ハウス」という安アパートに、7歳になったばかりのひとりの少女が、母と二人で住んでいた。
その少女、友子は、小学校から帰ってくると、母、雅代が神田の病院の事務の仕事から帰ってくるまでの間、雑草の生い繁る原っぱを突っ切って、その脇に建つアパートに戻ると階段の上を「指定席」にして独りの時間を楽しんだ。
「目の前に、いまぬけてきたばかりの原っぱがあった。友子は指定席から見る原っぱが好きだった。とりわけ一陣の風に雑草がいっせいに葉裏をみせ、濃い緑一色の草の海が鈍く銀色に輝く一瞬。大待宵草が結び目をほどくように黄色の花を淡く咲かせた夕暮れ時。(中略)
左手に東中野の駅。線路は高い土手に挟まれて見えなかったが、架線や、それに沿った通りと商店、玲子ちゃんちの星野テーラーやカステラの耳を秤売りする菓子店も見える。右手には外科病院があり、庭に公孫樹の大木が一本ひときわ高く立っている。」
実はこの安アパートには、終日シミーズ姿でハンチングを被った旦那が来るのを待ち侘びている芸者上がりの初江や、米兵のオンリーさんをしているミー、母と弟の入院費を稼ぐために女子大を中退してダンサーをしている瞳、初江と同じように子供を抱え料理屋の仲居をしている棚橋信子、といった訳アリの女性たちが住み、周囲では「おメカケハウス」と陰口をたたかれている。
いつも独りの友子を可愛がってくれる、夏の雑草のように逞しく生きる戦後の混乱期の女たちのそれぞれのドラマを、7歳の友子の目を通じて、この小説『夏草の女たち』は活き活きと写し取っていく。

おそらく(私自身を含め)東中野に長く住む住人であれば、ここに描写されている星野テーラーが現存し、「右手に見える外科病院」が「武外科医院」であることを容易に察することはできるはずだが、戦後7年を経ても駅前に、こんな茫洋たる原っぱが広がっていたことを知るのは、余程の年齢の方々であろう。だが、昭和40年代の記憶にも、西陽がストレートに差し込んでくる、この山手通りに続く坂道には、小説に描かれた面影が確かに残っていた。まさに、この少女、落合恵子にとっては、母子家庭に育った戦後の砂を噛むような一時代の忘れえぬ「原風景」であったことだろう。
彼女の自伝的小説とも言われるこの『夏草の女たち』の「友子」の時代を経て、落合恵子は明大へと進学し文化放送のアナウンサーへ、そして作家へと転身していく。彼女の作品には、混血少女の葛藤や成就しない恋、そして離婚などのストーリーが多いが、宿命を負わされた女性の、逆境にめげない逞しい生き方を、彼女たちと同じ眼の高さで見詰める優しさが、一貫して存在している。そして、「クレヨンハウス」の設立やシングルマザーの支援活動など、彼女の活動は枠にとらわれず、しかしそこには確固たる底流があることが見えてくるのだ。
そんな彼女の原点がここにある、と、夕陽に染まるこの坂道を見上げながら想うのである。