エッセイ


軍人とアナキスト―東中野縁起⑦

投稿日時:2012/12/26 00:52


 本シリーズ4「生き損なった詩人の恋」でご紹介した、東中野にあった吉行エイスケのカフェ「あざみ」の魅力は、辻潤や村山知義といった、下落合、上落合に群居した大正モダニズムの寵児、ダダイスト達の存在無くしては語り尽くすことはできない。だが、カフェ「あざみ」は、あぐりが市ヶ谷に美容室を持つ昭和4(1929)年頃には消滅してしまったようだ。
 しかし、東中野にもうひとつ芸術家達の集う店が存在していた。それは現在の東中野西口北側正面、東中野アパートメンツの場所にあった、フレンチレストラン「モナミ」である。
 もともと「モナミ」は銀座7丁目西側、現在の資生堂と立田野の間に昭和2(1927)年に開業した。岡本太郎の母、岡本かの子の「男友達」の一人、恒松安夫(後の島根県知事)の親戚筋の経営で、現在もある喫茶店「白十字」の姉妹店であった。「モナミ」という店名もかの子の命名によるといわれている。この銀座の店は戦前から出版記念会等、文人によく利用される店であった。
 この銀座「モナミ」の支店が、新宿と(何故か)東中野にあった。東中野「モナミ」の設立時期は不明だが、あの帝国ホテルと同じ、フランク・ロイド・ライトの設計であったと言われている。
 東中野「モナミ」が歴史の表舞台に顔を出し始めるのは戦後のことである。
 昭和23(1947)年、岡本太郎、花田清輝らがアヴァンギャルド芸術を提唱して結成した「夜の会」(後に「世紀の会」)は、東中野「モナミ」を会場に公開討論を繰り返した。前述の通り、もともと「モナミ」は太郎の母かの子との関係が深いこともあったが、レストランの他に喫茶部があり、珈琲一杯で時間を気にすることなく終日会場として使用できたことがその理由だったようだ。椎名鱗三、埴谷雄高、梅崎春生、野間宏、阿部公房等の戦後精鋭文学者たちも参加していた。
 昭和29(1954)年1月には小島信夫「小銃」、庄野潤三「愛撫」の出版記念会が開催され、その写真が残されている。安岡章太郎、小沼丹、遠藤周作等の顔も見える。ここに同席している吉行淳之介も数か月後には「驟雨」で芥川賞を受賞し、同じ東中野「モナミ」で祝賀会を開催することになる。父エイスケが「あざみ」を開いていた東中野への思い入れもあったのかもしれない。
 同年9月16日には、アナキスト大杉栄が虐殺された日を「大杉の日」として、荒畑寒村ら100名近くが東中野「モナミ」に集った。中野重治や小林多喜二をはじめ多くの左翼活動家が投獄されたのは、お隣の中野駅傍にあった豊多摩刑務所であった。
 こうして、東中野「モナミ」は多くの前衛的な芸術家や新進作家によって利用され、その作品の中にも登場している。例えば、津村節子『瑠璃色の石』の一節。
 「私が初めて、東中野駅近くの”モナミ”というレストランで毎月十五日に開かれている十五日会に出席したのは、昭和三十年・・・”モナミ”は富豪の屋敷をレストランに改装したもので、帝国ホテルと同じライトが設計したというだけあり、大正期の雰囲気の漂う風格のある建物であった。」
 十五日会は丹羽文雄が主宰する同人誌「文學者」の合評会で、毎月二百人もの参加者があったと書かれている。
 また、坂口安吾『散る日本』には、昭和22(1947)年6月6日に「モナミ」で開催された、将棋の塚田八段と木村名人の対局に立ち会うシーンが記されている。「東中野のモナミへついたのが九時半、塚田八段は来てゐたが、木村名人未だ来らず、東日の記者すらもまだ見えない。応接室のソファーにねて、水をとりよせ、救心という心臓の薬をのみ、メタボリンをのみ、ヒロポンをのんで、どうやら人心地ついたとき、島倉竹三郎が、ヤア、しばらくだな、とはいってきた。」
 と如何にも、安吾らしい。
 中山あい子『私の東京物語』では、瀬戸内晴美、河野多恵子らの主宰する同人誌「女流」の合評会の様子が紹介されている。
 「東中野のプラットホームに立つと、中野方面に向かって線路の右側に沿って、かなりの大きさでレストラン、モナミがあった。昭和三十二、三年頃、なかなかモダンで落ち着く店構えであった。大広間の他に小さな個室がいくつもあって、フランス料理が出るので、確か結婚式場でもあったと思う。…それから、四、五年後、暫くぶりでモナミに行ったのは河野さんの芥川賞の受賞パーティーがあった時である。三十八年の秋だった。…東中野モナミは、いまない。何時頃なくなったのか私は知らない。快速電車が、かすめ過ぎる時、ふとモナミの辺りを覗くが、一瞬である。」
 これが、知る限り、東中野「モナミ」に関する最後の記録である。中山の記憶が正しければ、昭和30年代後半までモナミは存続していたことになる。
 こうして、吉行エイスケに代表されるダダイスト達が大正末期に落合、東中野に集った歴史は戦後になっても前衛的な芸術家、第三の新人と呼ばれた作家達の舞台へと引き継がれた。彼らが拠点としたのは東中野駅の北側であったのに対し、南側には箱根土地の分譲した高級住宅地に戦前は軍人が、戦後は高級官僚が住んだ。大杉栄に代表されるアナキストに影響を受けたダダイスト、そして国家に身を挺した軍人と官僚、この対極が線路を挟んで対峙している。
 これが東中野の捉えどころのなさと、そして不思議な魅力の源泉、なのかもしれない。



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