エッセイ


カンバスの街から消えた人影―東中野縁起⑥

投稿日時:2012/12/10 21:34


 昭和20年5月25日、中野区住吉町(現:東中野4丁目)にあった国際文化アパートを永井荷風が焼き出されたその無差別空襲の中、あるひとつの「奇跡」が起きていた。
 東中野一帯を焦土と化したこの空襲から偶然にも難を逃れた或る画家のアトリエがあった。下落合4丁目(現:新宿区中井2丁目)にあった、松本竣介の自宅である。
 松本竣介は1912(明治45)年、東京渋谷に生まれるが2歳で父の仕事の関係で岩手県花巻に移住、旧制盛岡中学に入学した16歳の時に、病気で聴覚を失う。偶々兄より贈られた油絵の絵筆をとって美術の世界にのめり込むことになる。
 竣介は、東京外事専門学校(後の東京外語大)に進学する兄とともに上京し、太平洋画会研究所で絵を学び、昭和初期のモダニズムに溢れた街の風景を描き始める。聴覚を失った竣介の内省的な絵筆は、都市建築の織り成す立体的なリズムに活き活きと弾み、やがてドイツ出身のアメリカの画家ジョージ・グロスの影響のもとに、モンタージュの手法(画の中に複数のイメージを重ね合せること)によって「街とそこに住む人々」の描写へと花開いていく。1940(昭和15)年頃までの連作には、都市に住むモダンな人物群の背景にキュビスティックな建築物の街並みが融合するように調和して描かれている。
 しかし、1941年頃を境に竣介の画は背景の建築物がその主題となり、まるで戦争の靴音に人々が怯え室内に身を隠すように、街並みから人影が消えていくようになる。横濱駅近くの橋を描いた有名な連作「Y市の橋」にも人影は殆ど見られない。あっても、遠景に佇む小さく黒い影がひとつ、ふたつと描かれているだけだ。
 1941年とは、その前年に大政翼賛会が結成され、その年の12月には真珠湾攻撃によって太平洋戦争へと突入していく、戦時色を強めた時期であった。この4月、芸術家に国威発揚を求めた評論に反論し、竣介は「生きてゐる画家」という論説を美術誌に発表する。まさに、彼のキャンバスの街から人影が消えたのは、この時期を境にしていたのである。
 竣介が、そんな人影のない灰色の街を背景にブルーカラーのようなツナギを着た立像の自画像、「立てる像」を描いたのはその翌年のことである。暗澹たる時代の中で、竣介は既に「次の時代」を見据えた、時流に流されない自律した人間像をこの画の中で謳歌している。
 竣介は、下落合、四ノ坂上にあるアトリエの庭に、赤と黒の大量の油絵具とカンバスを地下深く埋めた。万一空襲に遭ってアトリエが焼かれようと、画を描き続けられるようにと。事実、戦後の一時期、竣介はこの絵具を使って厚塗りの赤字に骨太の黒い線でルオーに似たフォルムの画をいくつか描いている。
 しかし、周囲を焦土と化した昭和20年5月25日の空襲の中でも、奇跡的に竣介のアトリエは被災を免れた。戦後の竣介は戦時中の反骨を発条に、次々と新たな境地へと画風を展開していったが、その余りの勢いに無理が祟ったのか、1948(昭和23)年、持病の喘息の悪化により呆気なく36歳の生涯を終えることになる。
 今年、竣介生誕100周年を記念して、過去にない作品群を集めた展覧会が開催されている。聴覚を失って後の、僅か20年の画業は、戦災を逃れたアトリエに保管されていた数多くの絵画によって、現在でもその足跡を辿るに十分な量と質を備えている。
 これも、聴覚と引き換えに神が竣介に与えた僥倖のひとつ、なのかもしれない。



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