エッセイ


断腸亭の通り過ぎた春―東中野縁起⑤

投稿日時:2012/11/25 08:47


 再び朝の連ドラの枕で恐縮だが、『梅ちゃん先生』のタイトルのジオラマ制作を手掛けた山本高樹氏の作品展を過日、日本橋高島屋に見に行った。下町情緒溢れる時代と土地を題材に街の情景を再現したジオラマは、観ることよりも寧ろ創ることの楽しみを想像させるが、ひとつの驚きは、ジオラマに配された小さなフィギュアの群衆の中に、山本氏が必ず、小さなバッグを手に提げた永井荷風の姿を一体、紛れ込ませていたことだった。時代と場所は問わず、いずれの作品にも荷風が登場する。山本氏の生み出すノスタルジックな世界観にとって荷風はきっと不可欠な人物なのであろう。
 荷風・永井壮吉の人生の諸局面に強く惹かれるのは、おそらくは放蕩者なるが故に、厳格な父の命ずるままに、横濱正金銀行のニューヨーク、ならびにリヨン支店で現地採用として働き、しかし銀行員として適応することもなく、明治末期の欧米文化を満喫したこと、そして帰国後はその素養にも拘わらず(或いはその故に)、近世日本文化の魅惑に耽溺していくところ、にあるような気がする。荷風はグローバルな視野で、近代化によって喪われつつあった日本文化を再評価しうる立場にいたのだ。
 さて、晩年の荷風といえば、戦災で麻布・偏奇館を焼け出された後、身寄りのないままに、従弟にあたる邦楽家・杵屋五叟を頼って諸地を転々とした挙句、その市川の家に寄寓していたことが広く知られている。しかし、偏奇館を焼け出された後のほんの一時期、東中野のアパートで暮らしていたことを最近になって、初めて知った。
 『断腸亭日乗』の昭和20年の記述を追ってみよう。3月9日、深夜から翌朝にかけての空襲で偏奇館は焼け落ち、代々木にある杵屋の自宅に一旦、身を寄せる。4月15日「東中野のアパートに移らむとて夜具食器の運搬を五叟の子弟に頼み十一時過省線電車にて行く、菅原君の居室にて雑談すること一時間あまり、五叟子自転車にて先に来り子弟の曳く荷車つづいて来る…」
 この菅原君こと菅原明朗は、昭和初期に銀座のカフェで荷風と偶々知り合った作曲家だった。二人は意気投合し、NY滞在中にオペラ作家の夢を抱いた荷風の発案で、荷風が脚本を書き、菅原が作曲して『葛飾情話』というオペラを作っていた。この作品がもとでアルト歌手永井智子(荷風との縁続きではない)と菅原は結婚し、中野区住吉町23番地にあった「国際文化アパート」に住んでおり、そこに被災した荷風が転がり込んできた、という顛末である。因みに、永井智子は作家、永井路子の母(菅原にとっての連れ子)である。
 この国際文化アパートがあったのは現在の東中野4丁目、早稲田通りと上落合と接した東中野側にあたるが、その名の通り、菅原のような文化人の居住する洒落たアパートメントだったようだ。しかし、図らずも荷風はこのアパートに安住することはなかった。5月25日の空襲により、このアパートも被災し、荷風も菅原夫妻ともども、再び焼き出されてしまう。その後、荷風は菅原夫妻の縁故を辿り、被災を繰り返しながら明石、岡山を転々とし、不安神経症を呈す状況で終戦を迎えることになる。
 こうして荷風の東中野滞在は僅か40日足らずであったが、戦禍に追われる66歳の老痩には辛い思い出ばかりであったかもしれない。最後に、再び『断腸亭日乗』4月20日の記述を引用しよう。
「くもりて風なし、…小滝町角より中野駅の方に至る道路を歩む、茫々たる焼原より、長崎町野方町あたりかとおもはるる高台に晩桜の猶新緑の間に咲き残れるを見る、其の光景の悲愁なる此を筆にせんとするも能くするところにあらず」
 東中野を、断腸亭の通り過ぎた、一瞬の春、であった。


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