エッセイ


生き損なった詩人の恋―東中野縁起④

投稿日時:2012/11/11 06:06


 NHK朝の連ドラ『あぐり』に登場した、野村萬斎演ずる吉行エイスケは、その偉才ダダイスト作家を存分に彷彿とさせた。坂本龍馬の愛刀を手掛けた備前の刀鍛冶を祖先に持つ岡山の建築業「吉行組」の御曹司であったエイスケは、幼少よりその破天荒な行動で悪名を轟かせたが、大正11(1922)年、十六歳でひとつ下のあぐりと政略結婚させられると、そこから逃げるように上京してきた。
 その翌年3月、当時、辻潤や村山知義を筆頭としたダダイスト達が多く住む上落合に、彼らを慕ってひとりの画家が移り住んで来る。尾形亀之助、二十三歳であった。
 尾形亀之助もエイスケに境遇は似て、宮城県大河原の酒蔵・地主である素封家に生まれるが、喘息持ちで身体が弱かったこともあって繊細に育ち、ダダイスト画家を目指していた。行動派で芯の通ったエイスケとは対照的だが、この二人は意気投合してしまったようだ。
 さて、エイスケは、おそらくは実家に出資を持ちかけ、東中野に「あざみ」というカフェを経営していた。大正12年9月の関東大震災で多くの都心部の住人達が東中野に居を移したことは以前触れた通りだが、尾形亀之助が村山らとともに震災直後に開催した第2回「マヴォ展」の会場の一つになったのも、この「あざみ」であった。
 大正13(1924)年、あぐりは長男淳之介をエイスケの実家に預けて上京すると、十七歳でこのカフェ「あざみ」で働くようになった。尾形亀之助は既婚で娘も生まれていたが、あぐりに一目惚れしてしまい、足繁く「あざみ」通うようになる。
 画家になる夢(というほどの強い意志もなく)を諦めた尾形亀之助は大正15(1925)年、第一詩集『色ガラスの街』の「或る少女に」と題する詩に、次の一節をしたためた。

「あなたは/暗い夜の庭に立ちすくんでゐる/何か愉快ではなささうです//もしも そんなときに/私があなたを呼びかけて/あなたが私の方へ歩いてくる足どりが/私は好きでたまらないにちがひない」

 この「或る少女」こそ十七歳のあぐりだったに違いない。
 さて「あざみ」はどの辺りにあったのだろうか。村山知義は書いている。

「当時、東中野駅をはさんで、向こう側に『ユーカリ』こちら側に『あざみ』があり、その『あざみ』があぐりの経営する店だった。(中略)そしてその両店で、中央線沿線の芸術家連中とよく出会った。当時は中野駅から先はまだ本当の田舎だったから、ここいらが新宿以西の最後の呑み場所だったわけだ。」(『演劇的自伝』2)

 上落合から見て「こちら側」というと東中野東口(北出口)を出て早稲田通りに向かう商店街沿い(東中野4丁目)であったとも想定できる。あるいは駅のすぐ脇北側であったかもしれない。いずれにしても、上落合に住むダダイスト達にとっては駅を降りて帰る道すがらの便利な場所にある「サロン」として頻繁に利用した酒場に相違ない。
 その後、尾形亀之助の熱い片思いは成就することはなかった。自由恋愛主義者・吉行エイスケは余程度量の深い男と見えて、尾形亀之助を焚き付けたりしているが、あぐりはそれには靡かなかった。やがて、尾形亀之助は、離婚、再婚、出奔を繰り返し、実家の資産を食い潰し、数冊の詩集を残し、四十二歳の若さで昭和17(1942)年、仙台市内の貸家で孤独な死を迎える。絶食による自殺とも言われている。
 エイスケと亀之助、実に対照的な二人だが、いずれも嫌いではない。


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