エッセイ


東中野の鬼太郎―東中野縁起③

投稿日時:2012/10/21 06:30


 津軽で生まれ育って上京した父は、一人息子の育成にルソーの『エミール』を範としていたふしがあり、小学校四年生までは、横濱・戸塚の山深い土地で自然人として育てられた。その後、両親の間でどのような議論があったかは知らないが、息子の進学のために意を決して東中野へと転居したものらしい。
 横濱の山野時代同様、父のお下がりの歯の擦り減った下駄を履き、当時は珍しくもなかった短パン姿で、加えて生まれながらの直毛を長髪にしていたスタイルをそのまま実践していたので、東中野の「ゲゲゲの鬼太郎」といつしか渾名されるようになっていた。
 まだ幼少ではあるものの、気質は一種のバンカラであり、他人に何を言われようが自分のスタイルを押し通す田舎臭い癖は、その後も新入社員の頃、革靴に白い靴下を履いて同期の女性に嗤われるまで続いていたような気がする。
 しかし、かといって四十年前の東中野はその田舎者を廃絶してしまうほど洗練された街でもなかったのだ。前回触れた甲武鉄道の開通以降、都心からの移住者が増え、特に関東大震災を契機に、郊外の広い土地に家を再建して住む人が急増したというから、都心から見ればまだまだ田園の様相を呈していたに違いない。因みに落合周辺の寺町も、この時まとめて下町から移転してできたものと言われている。火葬場が先にあったこともその要因であったろう。
 こうして「東中野の鬼太郎」として小学校四年生の私は街を闊歩していたのだが、実は東中野が鬼太郎に縁がない訳でもない。地元以外の人には余り知られてはいないのだが、東中野から北に上高田(地元の人は「かみたかた」と発音する)、江古田を抜けたところに「哲学堂」という公園がある。
 ここは、哲学館(後の東洋大学)を興した哲学者、井上圓了が明治37(1904)年に私設公園として開設したもので、孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四聖を祀る四聖堂をはじめ哲理門、六賢台、三学亭などの建物を16,000坪の園内に配したものである。建造物のみならず庭園には、唯物園、概念橋、唯心庭など哲学用語が付された七十七に及ぶ場所があり、いわば頭の中の哲学を庭園に具現化させたものとなっている。
 哲学を高尚な学問と信じて疑わなかった蒼き学生の頃は、この卑俗さを鼻で嗤っていたものだったが、齢を経てみると難解な哲学を身近に感じさせてくれる面白い空間であることを再認識させられる。七十七ヶ所の中には、直覚径、理想橋、理化譚、など圓了のユーモアを感じさせるネーミングもあり、「いかがわしい人物」という以前の評価は180度転換した。
 さて、この圓了こそ「妖怪学」の始祖と言われる人物である。哲学堂にある哲理門には、天狗と幽霊の彫像が収められているが、これはいずれも「理外の理」、つまり人間の認識を超えた存在の象徴として、物質の理外の理が天狗であり、精神の理外の理が幽霊である、と説かれている。
 それこそ、昨今、鬼太郎の作者である水木しげるが再評価されているが、この「いかがわしい」とされてきた圓了の妖怪学についても、もっと再評価されてもいいのではないか、と考えている。
 東中野には、ゲゲゲの鬼太郎がよく似合う、と言えるのかもしれない。
 


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