齢を経ると人の記憶は曖昧になる。哀しいことはその曖昧な記憶が文字となり、後世に誤解のまま伝承されてしまうことだ。
実はそんな誤解に鋭いメスを入れた人がいる。『鉄道忌避伝説の謎』を記した青木栄一氏である。青木氏は東京学芸大学の地理学の先生だが、全国各地にある幹線鉄道が市街地を離れた場所に敷設されているのは、蒸気機関車による火災等を忌避した住民による反対運動の結果だという口承を、郷土史を丹念に掘り起しながら反証していく。事実は、既に街道筋で発展を遂げた街中を幹線鉄道を通すには莫大な建設資金が必要となるために、用地買収が容易な市街地を経由させたためである。
前回、柏木停車場で触れた中央線の前身、甲武鉄道についても同様の「鉄道忌避伝説」がある。当初、新宿以西を甲州街道や青梅街道沿いに建設する計画であったが、住民の反対運動の結果現在の路線になった、とする口承である。現在でも中央線の歴史を紐解くと、これを踏襲した説明が多く目につく。
東中野-立川間は、室蘭本線の白老東・沼ノ端間の28.7キロ、函館本線の光珠内・滝川間22.8キロに次ぐ、日本有数の21.7キロの直線区間である。しかも、北海道ではなく東京に、である。御茶ノ水からくねくねと都心を縫った鉄道が新宿を出ると北から西へと大きく迂回し、一気に立川まで直行するその始点が東中野、旧柏木停車場なのだ。しかし鉄道の建設過程はこの逆で、新宿ー立川間が1889(明治22)年に開業し、その後、立川ー八王子間、そして新宿ー牛込(1894年)、牛込ー飯田町(1895年)、さらに御茶ノ水(1904年)と東へと伸延していき、1906年に国有化され、中央本線の一部となった。
この建設過程からも分かるように、新宿ー立川間は最も用地買収が容易であった、つまり「何もなかったからまっすぐな軌道を確保できた」のである。柏木のステーションは「栄誉ある」その直線の起点にあたる。
東中野を語る際に避けて通れないのは、駅のすぐ西側で中央線と直行する山手通りの陸橋から西を望むこの鉄道の軌道の直線の美しさである。やや丘になった東中野から立川までの平原に続く中野に向かって線路の両側が、なだらかに低くくなっていく切通しとなっていて、その土手上には樹齢百年に近い桜並木の老木が並び、桜咲く春には土手の菜の花と新緑の入り混じる見事な色彩の宴を繰りひろげる。後に触れることになるが、この陸橋からの風景は明治以降、多くの作家たちも魅了してきた。前回触れた、漱石もその一人だったかもしれない。

1982年に初版が書かれた、椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ』は、永島慎二『若者たち』と同じく、私にとっては青春のノスタルジーを強く感じる作品のひとつだが、小岩の「克美荘」という安アパートで沢野ひとしと共に極貧共同生活を行う木村晋介という男が、この東中野の陸橋の欄干を渡るエピソードが出てくる。実は、この作品にとって、中央・総武線はひとつの隠れた導線になっていて、もともと中野、東中野の住人である沢野が椎名と同じ千葉の高校のクラスメートになるのは、家の建て替えのために沢野が一時的に千葉に越してきたことが発端になっている。克美荘がその中間にあたる訳である。
今でこそ、中央・総武線と称するようになったが、ひと昔前までは、「中央線快速」と「総武線各駅停車」であった。東中野は総武線各駅停車の駅、つまり中央線上にありながら、千葉方面と繋がっていたことになる。
今でもよく晴れた日は、東中野陸橋の中央に立って遥か西に真っ直ぐに延びる線路を眺めるとこころが晴れ晴れとする。どれだけ世の中が屈折しようと、我が人生が紆余曲折を辿ろうとも、地平線まで真っ直ぐに続くこの軌道を見ているうちに、木村晋介でなくとも、欄干の上を渡ってみたくなるものだ。
※ 残念ながら、山手通りの拡張工事により陸橋も新たに架橋され、木村の渡った欄干はなくなってしまった。