エッセイ


貌のない街―東中野縁起①

投稿日時:2012/09/22 05:39


 東中野を一言で表現すれば、それは「貌のない街」ということになる。例えば「西東京市」と聞いても未だにピンと来ないが、田無市と保谷市と言われれば大体の見当がつくのと同じである。いわば行政による地名改変の典型的な例かもしれない。1962年の「住居表示に関する法律」により、東京の(いや全国の)由緒ある地名が姿を消していった。実はこの「中野の東」にも、氷川、桜山、上ノ原、落合、柏木といった地名があった。新宿にまだ十二社(じゅうにそう)、角筈(つのはず)、淀橋の地名が生きていた頃である。
 この内、「柏木」というのは、神田川より東側、現在の新宿区北新宿の一部にあたるが、「中野の東」生成を知る上で一石を投じてくれる地名である。
 現在の東中野駅は明治39(1906)年の開業時には柏木停車場と呼ばれていた。飯田町から中野まで甲武鉄道が電化した2年後のことである。新宿方面から中央・総武線各駅停車に乗って東中野駅に入って来ると、駅の手前に南北を通る道を線路が遮断した跡が見受けられる。ここは昔、桐ケ谷踏切のあった場所で、当時の駅はこの踏切よりも新宿寄りにあった。残念なことに姿を消してしまったが、若・貴が結婚式を挙げた日本閣脇のガード上に駅があったことになる。
 つまり、隣接していたとはいえ、豊多摩郡淀橋町の地名を冠した駅が中野町に存在していたということになる。実はこの「柏木のステーション」は漱石と縁が深い。「三四郎」の中で、野々宮の下宿の留守番を頼まれた三四郎は、そこで下宿脇の線路上を歩く轢死自殺に遭遇することになるが、この下宿こそ現在の大久保と東中野の丁度中間ほどの位置にあたる。「三四郎」が書かれたのは明治41(1908)年、柏木停車場開業の僅か2年後のことである。
 そして明治44(1911)年11月、漱石はとても可愛がっていた五女ひな子を、僅か1歳7ヶ月で喪い、絶望のどん底に陥る。そのひな子の葬式を済ませ、柏木のステーションから落合の焼場に向かうことが、12月2日の悲嘆にくれた日記に記されている。この時の漱石の痛手は、後に「こころ」(例えば雑司ヶ谷の墓地で主人公が先生に巡り合う場面)や「彼岸過迄」などの作品に活かされていると言われている。そして、漱石自身が火葬に臥されたのもまた、落合斎場であった。名主の子として生まれた牛込馬場下(今でも夏目坂という地名も残る)からも遠からず、縁浅からぬ場所だったのだろう。
 中野町にあるにも拘わらず、淀橋町の地名を駅に冠せざるを得なかったほどに、この場所は個性を持たなかった。大正6年(1917)年に駅名を改称する際にも「中野の東」と称せざるを得なかったのではないか、と想像している。
 


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