エッセイ


父の夢破れ ― 岬町こと始め ①

投稿日時:2017/06/09 18:34


 今からかれこれ35年前のことである。丁度私が社会人になった前後の時期にあたる。自宅の一戸建てのローンを55歳で完済した父は、あるひとつの老後の夢を実現しようと考える。父は津軽という寒冷地で18歳までを過ごして上京した。その後、東京の大学を出て、東京の出版社に勤め、後5年で定年を迎えることになる。父がローンの完済期限を55歳にしたのは、ローンを組んだ時点での定年は55歳だったからだと想像している。その後、日本人の平均余命は伸び、年金制度の逼迫も相俟って、定年は60歳に延長された。父には「5年の猶予」が与えられたのだ。
 父の思い描いた「夢」とは温暖な外房に老後の隠居場を持つことだったらしい。父はどうしたツテを辿ったものか、大原に本社を持つ別荘地を専門に扱うN不動産の池袋支店を尋ね、具体的な別荘地の物色を始めた。勿論、外房に別荘を持つなら、太平洋を見渡せる海縁りの高台の土地がいいに決まっている。物持ちの良い父の遺品からは、N不動産が作成した複数の別荘地の販売物件の地図と地面図が出てくる。いくつかの候補を見て歩いたのだと想像される。
 しかし、父はどうも海沿いの別荘地の購入を諦めたようだ。塩害を心配したのか、地震による津波を怖れたのか、あるいは価格で折り合いがつかなかったのかも知れない。多分、価格の問題が先にあって、いや塩害が、とか津波が、とかN不動産に説得されて、外房線の特急も止まらない鄙びた駅から、更に田畑の続く平野を奥地に6キロ程も入った竹林の80坪ほどの土地を購った。記録によれば、当時(80年台初頭)の金額にして500百万円である。その購入資金の一部を父は定年の60歳までのローンで賄った。どうも、バブルを目前に控えたこの時期は、外房の別荘地がある種のブームになっていて、父は相対的に高い買い物をしたように思われる。
 …と、ここまでの話しは、残された書類や、認知症で既に昔の記憶が曖昧になりかけた母の証言をもとに想定したものに過ぎない。父は既に13年前、78歳で他界しており、その真意を確認すべき術は最早残されていないからだ。残されたのは辺鄙な遠隔地の80坪の竹林だけである。父は「独断の人」であったから、この土地の購入時に息子の私にも何の相談も予告もなかった。一緒に土地を見て回った筈の母にでさえ、その事実も理由も伝えていなかったらしい(こちらは既に記憶が曖昧なので定かではないが)。
 父の土地購入後、一時はバブルで外房の土地も値上がりした筈だが、所詮最初から投機目的ではなかったから、父は老後の隠居を夢見てその土地を手離すことはなかった。しかし、バブルは弾け、この国中の土地という土地が脱兎の勢いで値を下げる中、とりたててロケーションに魅力のない別荘地の価格は二束三文まで下落してしまった。父もそれは知っていたに違いないが、購入した土地の権利書が紙きれ同然になっても既に手の打ちようはなかったのだろう。
 こうして、自らその土地を処理することもなく、父は逝ってしまった。それにしても…と思う。60歳で隠居する積り「だった筈」の父は死ぬまで働き続けた。温暖な外房での安穏な生活を思い描いていたのではなかったのか。定年後は勤めていた出版社に受付や清掃員を派遣する派遣子会社の社長になったが、社長とは名ばかりで、あばら屋のように傾いた事務所で、やはり定年後に職を得た老齢の事務職と二人で、5~6名の派遣社員を抱え、細々とした会社の経営にあたっていたのだ。
 父は何故、死ぬまで働き続けたのか。それは解明できない永遠の謎なのだが、ひとつだけ思い当たることがある。「金の卵」という言葉が使われた70年代、父の働いていた出版社でも特に営業・事務系の人材が逼迫していた。父は自らが卒業した津軽の高校の同窓会の役員をしていた関係で、同高卒の社員を数年に亘り7~8人出版社に紹介し採用させていた。
 上京後は、彼らの父親代わりとして休日は自宅に招いて飲食を供したり、娯楽の少ない時代、深夜・早朝まで麻雀卓を囲む等の世話を焼いた。更には、当然のことながら、彼らの結婚の仲人をして文字通り「親代わり」の面倒を見ていたのだ。その中に、結果的に最後まで独身を貫いていた一人の男がいた。他の同窓生が家庭を持ち、定例の週末の集いから逸脱していく中、彼は父と競馬に興じるようになった。もともと賭け事の嫌いではない父は、彼と一緒に競馬場に通うようになり、その内、彼に電話をして馬券を買うようになった。
 どうも、いつしか彼は「のみ行為」の胴元に近い存在になっていたようだ。父がそれを知っていたのかどうかは定かではないが、毎週末になると彼に電話で馬券を申し込んでいた。彼は父のいた出版社の経理部に勤めていた。そして数年後、彼が会社の金を横領していた事実が発覚して逮捕・起訴され、有罪となった。横領金額は億単位であり、その時はテレビニュースでも報道される大事件となった。
 父は家庭では、この事件の経緯や顛末、会社における父の管理責任の所在等については一切語らなかった。しかし、紹介者は父自身であったし、ましてや「親代わり」としての管理責任も不問であったとは思えない。その後、刑期を終えて出所した彼は横領金額を少しづつ会社に返済し続けている、と風の噂に耳にしたこともあるし、父も退職金の一部を返上し、あるいは定年後も働くことで「会社への債務」を信義上返済していたのかもしれない。つまり、父が死ぬまで働いていたのは、自らの咎に対する贖罪ではなかったのだろうか。
 家庭では決して多くを語らず、寧ろ寡黙を貫いた父ではあったが、いすみ市岬町の竹林が、手つかずで遺された原因は、案外そんなところにあったような気がしている。


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