エッセイ


友よ謐(しず)かに眠れ

投稿日時:2017/05/08 07:01


 中学時代の旧友の訃報が届いて三ヶ月が経とうとしている。今まで経験したことのないような喪失感に囚われ、この間、実利的な課題でその隙間を埋めることばかり無意識に努めてきたようだが、連休でふと立ち止まった瞬間、霧の中に居るようなあの空虚な時間に再び包みこまれることになった。

 この「ブログという日録」の中に3回、彼は登場する。横濱から東中野へと舞い戻り30年ぶりの再会を記した2014/4/6の「止まった時間の中で」、最初の病変を知らせられた2015/11/7の「晩秋 一葉の葉書」、そして術後を見舞った2016/4/23の「食べ物という実存」である。

 その後、小康を得て退院した彼と、5月27日に中野で酒抜きの懐石料理を共に楽しんだのが結局、最後になってしまった。その後、彼は時空に見失った「過去の絆」を取り戻すべくfacebookを始め、中学、高校、大学時代の仲間達との旧交を温めていったようだった。会食時も、別れ際にふと「これは生前葬なんだよ」と呟いていた。その後、facebookには、高校、大学時代の仲間たちとの「生前葬」の写真がアップされるようになった。

 facebookで知己のできた数人の中学時代の同級生に、それとなく彼の「生前葬」を持ち掛けてみたもののその気運は実現には至らぬままだった。社会人になるまで私が中学クラス会の幹事をしていたものだが、結局その後、横濱への転居や渡米等で不在がちにとなり、彼が二十年以上に亘り、幹事をしていた。やがて彼から別の同級生へと幹事が変わり、後にその同級生に事情を聴いてみても「何かあった」ということしか分からない。きっと「何かあった」のだろう。彼は私以上に何かを繊細に感じるタイプの人間であったから。

 結局、中学時代の同級生で彼の「生前葬」に立ち会ったのは、私一人だったようだ。彼がクラス会での「生前葬」を望んでいたのかどうかは分からない。好き嫌いや過去の経緯も飲込んだ上で皆に送られたいと考える男ではなかった…とは思う。気の合う奴と、残された時間を大切に共有したい、と私なら考えたと思う。だから敢えて「儀式」のようなことは私からは提起しなかったのである。

 「止まった時間の中で」に記したように、美大の建築学科を出た彼は古いステーショナリー(万年筆のような)を蒐集することが趣味だった。勿論、設計に限らず、デザインやイラストといった創作意欲も旺盛な男だが、これを描くための道具の機能性やデザインにも固執した。その趣味は決して嫌味に陥らず、彼の審美眼は普遍的な説得力を持っていた。こうして蒐集した味わい深いステーショナリーを、彼はヤフオクでひとつひとつ処分していき、その記録をfacebookに残していく。これに並行して「最後の晩餐」とも称すべき、自ら愛した店の食皿を巡る記録。その記載にも次第に「完食できず」とか「数口で断念」といった記述が目立つようになった。

 今年に入ってそんな彼の投稿が目だって減ったことが気になっていた。再入院したという記述があったが、今度は「見舞に来てくれ」というニュアンスではなかった。そして、2月12日、永眠する。後に奥様に伺うところでは、暮頃に転移が分かり再入院し、抗癌剤投与に加え放射線治療を続けていたところ、年明け頃から容態が急変したということだった。

 この間、自分は何をしていたのだろうか、と振り返る。ムカジーという医師の書いた『がんー400年の歴史』、立花隆『臨死体験』、近藤誠『がん治療の95%はまちがい』という本を読んだ。亡父の忘れ形見であるいすみ市の竹林の土地に建てた隠居場ともいうべき書庫兼書斎に、約3,000冊の蔵書を収蔵した。来年の停年を見据えた準備を始めた。……おそらく、こうした「人生のしまいかた」に着手し始めたのも、彼の罹病が引き金になっているに違いない、と思っている。

 彼とのメールのやりとりの中で「ひとりになるといろいろなことを考えて堪らなく辛くなる」という一節があった。孤独な病室の夜を迎えて煩悶する彼の姿が目に浮かぶ。一方で、歳経るということは死に一歩一歩近づくことでもある。立花隆の著書は「決して死は怖いものではない」ということを教えてくれる。そして「自然に迎え入れるべきものだ」ということも。彼もきっと、最後はそうして死を受け入れていった、と信じたい。

 彼の最後の数か月を綴ったfacebookは、未だに奥様と美大生の一人娘さんによって維持されている。そのホームページに残された彼の最後のメッセージ。闘病の苦しさを綴ったその末尾は、「〇〇(奥様の名前)、今まで有り難う。」という言葉で結ばれている。



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