エッセイ


カーテン一枚隔てた「生と死」

投稿日時:2016/08/23 21:59


 ドイツ赴任以来の持病「慢性腎臓病」が帰国後8年を経て悪化したものらしく、この2、3年の検診で常に尿蛋白と潜血が続いた。腎臓というのは「濾過機」なので一度(糸球体という)濾過装置の目が詰まってしまうと元に戻す術はなく、悪化を防ぐことが最大の防御で病症自体は改善しない…と、横濱のある病院の少しは名の知れた腎臓内科の専門医に言われて、1日あたり、塩分6グラム、蛋白質60グラム、カロリー1,600Kcalの「規則的な食事」で延命するための栄養指導を1泊2日の入院で受け、8年間、「朝食と昼食(家人の努力の賜物としての小さな弁当)」については遵守してきた。しかし、流石に、夜もこれでは仕事のストレスも発散できまいと「例外扱い」として羽目を外してきた…ことが、少なからず響いたらしい。

 12年前に逝去した亡父が、30年ほど前に「急性膵炎」で入院した市ヶ谷のK病院が、中野の警察学校跡地に移転して数年になる。認知症の母の介護のために4年前に東中野に転居した現在、横濱のその病院に足繁く通院するのも現実的ではなく、紹介状を持ってK病院の「腎代謝科」を訪ねる。見るからに近代的設備の揃い、医療事務も効率化されたK病院で3度に亘り尿検査を受けると、やはり尿蛋白と潜血が継続しており、遂に担当医から「腎生検」を勧められた。腎生検とは背中から2ミリ程の太さの中空の針を刺して腎臓に到達させ、直径1ミリ、長さ10ミリ程の腎臓の生きた検体を採取し、腎臓疾患の「原因」の本質を探るという。血液検査やMRT、CTでは腎臓内の病変は特定できないため、実際の細胞を採取する、一見無謀とも思える、この「生検」が必要なのだと言う。「……とは言いながら、血尿や腰痛などの後遺症が稀にあるため(何万分の1で死亡例もある、という)、最終的な選択は患者さんにありますけどね……」という丁寧かつ曖昧で冷静な説明を聞いて、半月ばかりの猶予を与えられ自分の「命」を天秤に掛けることになった。

 ようやく意を決し承諾書にサインをして検査入院をすることにする。何もなければ入院翌日に針を刺し、検体を採取した後3時間は砂嚢で局部を圧迫し5時間は安静、血尿や腰痛などがなければ、翌々日には退院(つまり3泊4日)というスケジュールなのだが、「万が一のことを想定して」1週間は会社の休みを取れますか、と担当医は言う。たまさか、お盆休みが間近であったので、そこで1週間の休みをとって、検査入院ということになった。

 病室は4人の相部屋、ベッドは満床であった。ただ、この病院の優れているところは、部屋の両側に細長い小さなベランダを作ることにより(その分、外観は凹凸の激しいやや異様なファサードとなるのだが)、万が一窓側の部屋でなくても、外光が細長い窓からベッドに差し込む構造になっている。病人にとっては外光のもたらす生命力は大きい。私自身は幸いにして、窓側のベッドに入ることになったが、部屋は南向き、直射日光を避けて寧ろカーテンで遮蔽していることの方が多かった。

 入院当日は、前記の「食事制限」に準じた病院食を食べて寝ていることだけが与えられたタスクである。数時間おきに、検温、血圧測定、偶に採血がある他は、一日の摂取水分は食事を除き1,000ml以内に抑えること、そして「お小水」(と「お通じ」という「言葉」を使う)の度ごとにその排出量を測定し、摂取、排出を都度記録する、というタスクを負わされる。尿は病室にあるトイレに置かれているコーティングの紙コップで計測できるようになっている。不思議なもので、尿意を催しても、人間の膀胱は凡そ400mlの範囲内で納まるもののようで、その紙コップは400mlが上限になっている。2度ばかりギリギリまで尿意を我慢した結果、一度捨てた上で追加を量った(それでも450mlが上限であった)ことがあったものの、人間にはやはり何等かの「物理的制約」がある。

 さて、同室の4人とは見事なレールの湾曲で仕切られたカーテンに囲われプライベートは確保されているのだが、当然の事ながら、看護師が訊ねて名前や病状を尋ね、また、見舞客との会話も筒抜けになるので、聞くともなく聞こえてくるそれぞれの「人生」が次第に浮彫りとなっていくことは、致し方ない。

 私は南西の窓側のベットに西を頭に横臥しているが、その足元、南東窓側のベッドには齢80を迎えると思しきSさんが入院している。因みに、これは偶然かもしれないが、私を除く同室3名全員が何等かの呼吸器疾患のある患者さんであった。Sさんの元には日曜日の午後になると、子息と孫と思しき大勢の見舞客が来訪し、ちょっとした親族の輪が出来上がり、Sさんはその円の中心で好々爺を演ずる。ただ、病状は深刻で、酸素ボンベを欠かさず痰を吸引し、日に数回は苦しそうに長く咳き込むことも少なくない。食欲も芳しくなく、更に4日程も続く便秘に悩まされている(便秘は入院患者共通の現象で、私自身も悩まされた)。

 朝の回診で、呼吸器科の女医が来てその会話を聴くともなく聞いていると「放射線治療」「抗癌剤」という言葉を本人と交わしているので、肺癌なのか、いずれかの癌が肺に転移したものと想像できる。しかし、Sさんは達観しているのか、少しきつい北関東訛りで、いつも若い看護師さんと他愛のない会話を愉しんでいる。晩になると、特に夜9時の消灯を過ぎると、咳き込むことが多く、その苦しそうな様子を聞いているだけでも、辛くなる。

 ある深夜、ナースコールで夜勤の看護師を呼んで一言掠れた声で「レスキュー」とSさんが叫ぶと、ベッドのまま処置室へと連れていかれた様子だった。ああ、このまま帰って来ないのかもしれないなぁ……と目が冴えたまま、暫し横臥しつつ佇んでいると、30分ほど経ってSさんごとベッドが元の位置に運ばれてきた気配がする。眠れなくなってしまったので、卓上ライトで津村節子の文庫本のエッセーなんぞを読んでいると、やがてSさんの鼾が聞こえてきて、拍子抜けしたように安堵し、私自身もそのまま睡魔に呑まれていった。

 私の南西側のベッドの左隣、つまり「奥」のベッドにはHさんが入院していた。その語り口はそこそこの従業員を抱えた個人店舗の主のようであり、事実、看護士に対する接し方には浮世離れした貫録と遊び人の口調が漂っている。Hさんは、どうも糖尿病が悪化し、呼吸器不全に加えて末端神経の麻痺まで引き起こしているようで、終日何等かの点滴を打っているし、苦しそうに続く極めて頻繁な呼吸に酸素吸入も終日欠かせない。夜8時の面会時間終了の1時間ほど前になると、「恋女房」としか譬えようのない海老名香葉子に声の似た奥さんが見舞に訪れ、周囲に気遣いながら二人でひそひそ話をして、時々小声で楽しそうに笑っている。その会話によれば、既に1ヶ月程は入院している様子で、どうも声の様子や、カーテン越しにふと垣間見るHさんの姿は未だ50代前半の趣ではあるものの、やはり病状は深刻なようだ。

 日に6回(つまりは食前と食後にあたるのだろうが)、血糖の検査にHさんのベッドを看護士が訪れる。一番低い時で140、高い時は240程度の血糖値であるから、かなりの重症なのだろう。その割には、回診の合間に、シャリシャリというビニール袋を引裂く音に続いて、煎餅を齧っている美味しそうな音がする。隣のベッドにまで、ぷ~んと醤油の匂いが香ってくるのだから、間違いはない。人間の「業」とは恐ろしいものだ。これほどの苦しい思いをしながらも、やはり食への執念は消えない……と思った瞬間、酒に溺れる我が身を省み、他人事ではない、と思った。

 Sさんの奥のベッド、つまりHさんの並びには、Iさんが寝ている。終日いつも寡黙で、看護士に話しかけられて漸く、二言、三言と言葉を交わす様子だが、やはり、肺をやられているようで、時々苦しい呼吸をしている。話す声を聴くと、やはり70歳台といったとこだろうか。相当に食欲が減退しているようで、食事の度に、看護士が食べた量をチェックに来ている。酸素吸入にまでは至っていたいようで、本人が希望している「仮退院」のために酸素ボンベの供給を、担当医から勧められている。老化による肺気腫の悪化、というところなのだろうか。彼は、SさんやHさんほど体力は消耗しておらず、自力でトイレにも立てるし、歯磨きも洗面所で自ら行っている。SさんやHさんは、いずれの場合も、車椅子による介護が必要なのである。

 何故か私独りが「検査入院」という「モグリ」の入院をしているようで、何処か後ろめたい気持ちに襲われる。この病院の病室には、死との境界線を目前にしながら生のために闘っている人たちがいる。作家・吉村昭が癌の転移の挙句「自宅での死」を希求し、最後は点滴の管に繋がれることさえ拒否して自宅での死を迎えたことは、私には「奇跡」のようにも思える。現代の日本人は何等かの形で、最期は病院に隔離され管に繋がれ、死の間際まで「延命治療」を施される宿命を負っているのだ。12年前に、父が胆管癌で逝去した時も、大学病院のICUで、しかも無意識に暴れて点滴の管を外すものだから、身体の「拘束」まで受けていたのだ。勿論、いわゆる「ICU症候群」で、発言も既に支離滅裂で暴言を吐き、拘束を容認せざるを得ない状況であった。最後の晩、勤め帰りに見舞った父は、いつになく冷静な口調で「背中を擦って欲しい」と言った。黄疸が顕著になり、皮膚の痒みが全身を襲っていたのだろう。私は、漸く半身を起こした父の背中を無造作に擦った。それでも父は黙したまま心地よさそうに俯いていたが、暫くして「もう、いい。有り難う。」 と一言発して、再びベッドに横臥した。

 これが、父との最後の「接触」だった。翌日、私が出勤している間に父の容態は急変し、私が駆けつける前に、帰らぬ人となった。私の左手の掌には、あの時の父の背中の温もりが未だ残っている。

 病院の病室には二種類の人間しか存在しない。「退院できる者」と「退院できない者」だ。しかし、この差は紙一枚、いやカーテン一枚の差でしかない。例えば、「比較的」健全な私のような検査入院患者であっても、場合によっては検査後急変して病院で死を迎えることになるかもしれない。一方で、Sさんのような「末期癌の患者」でさえ、病院から離れた死の選択(たとえばホスピスや自宅での臨終など)によって「退院」することもあるのかもしれない。しかし、この場所に共通することは、病院とは、常に「生と死」に向き合う場所、であるということだろう。そして、そこにいる誰もが、決して「生を諦めてはいない」ということである。私はその「死闘」に直面した3泊4日を共有し、著しく疲労を感じるとともに、改めて自らの死生観を問う機会を得た気がした。

 偶々、同室となった他のお三方は、おそらくは相当に重篤な呼吸器疾患を抱えていることは事実なのだが、死の恐怖に直面しながら、決して「生きる明るさ」そしてその希望を失ってはいない。特に、妻であれ、子息であれ、あるいは孫であれ、その親族が訪ねる時、彼らは「病人」とは思えぬほど活き活きとした「生」の闊達さに輝いている。読んで字の如く「人間」とは、人と人との間にあって、はじめて人間たりえているのだ。そしてその「生」においても。

 腎臓に針を刺す検査自体はかなりの苦痛を伴うものだったが、幸いにして予後も芳しく、予定通り3泊4日で無事に退院することができた。水曜の昼に退院を告げられると、それはそれで嬉しいことながら、同室のお三方の闘病の予後を祈りつつ、静かに病室を去ることにした。Sさんはこのまま闘病を続けられるのだろうか、Hさんは体調不全の負の連鎖から解き放たれる日がやってくるのだろうか、Iさんは仮退院してもやがて酸素ボンベを引き摺りながら徐々に衰えていくのだろうか。挨拶以外に何のコミュニケーションもなかった同室の方々であったが、その「生に向けた闘い」をこれからも蔭ながら応援したい。

 せめて、父には、吉村昭のような最期を迎えて欲しかった…と悔やみつつ、私は病院の門を後にした。



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