エッセイ


食べ物という実存

投稿日時:2016/04/23 06:25


 『晩秋・一葉の葉書』に書いた中学時代の旧友から携帯にショートメールが届いたのは3月中旬だった。そう「PET検査までやりましたヨ。もう、酒は飲めない」と言葉少なく自筆のイラストを送ってくれた建築士の友人である。

 11月に葉書をもらってすぐメールを送った時には、「大丈夫、何とか無事だ」と返信してきた友人であったが、実はその後膵臓の癌が見つかり大掛りな摘出手術をしたらしい。ご丁寧に「手術前」「手術後」の自撮り写真まで貼付されているが、術前の写真さえ相当な痩せ方なのに、術後に至っては骨格が透けて見えるほどに痩せている。凄惨な闘病の様子に、しばし言葉を喪った。

 やや逡巡しながらもその週末、小さなフラワーアレンジメントを持参しながらメールに記された世田谷区の病院に見舞に出掛けた。特別な病院で余り部外者が入れないせいか(友人は他の病院の紹介で入院した)、新しく広大な週末の病院に人影は少なく、ナースステーションで訪ねると、大きなベッドが贅沢に4床並んだゆったりとした部屋を、友人は一人で独占して寝ていた。

 術後の痩身を写真を見ていたので驚かなかったものの、二年前に数十年ぶりに再会して中野駅北口の呑み屋で酒酌み交わし時を忘れた友人の面影はなかった(その話は、かつて『止まった時間の中で』に記した)。私の姿を認め、上体を起こして口を開き始めると、淡々としかし饒舌なヤツの変わらぬ様子に不安の糸は解れていった。

 11月の検査の結果暫く経過観察となったが、2月頃から急激に痩せ始め便の色が白っぽくなるという異変が起きたそうだ。他に自覚症状もないまま、2週間ばかりで10キロ以上も痩せてしまい、再度生理検査をしてもらったところ、膵臓に癌が見つかった。しかも胆汁が鬱堆して肝機能障害を起こしているので応急的にこれを改善しなければならない。胆管にステントを入れて漸く肝機能が回復してから手術をすることになった。

 膵臓癌はなかなか外観では分かり難いもののようで、当初は1センチ程度と説明を受けていたが、開腹してみると5センチ弱まで大きくなっており、膵臓を半分切除した他、転移の可能性があるため、十二指腸、胆嚢、周囲のリンパ腺までまとめて取ってしまった……と、さも鶏の臓物を取り出すように平気で見てきたように喋れるのが、この男の度胸の据わったところだ。

 術後1週間程度が経っているが、未だ経口での栄養補給はできず点滴に頼っているが、三日程前から白湯のような粥を食べ始めたものの、昨晩、戻してしまい、また点滴になってしまった、と淋しそうだった。食べること、飲むこと、紫煙燻らすことの好きな男のことだ。食べることができない、というのはさぞ辛いことだろう。流石に、煙草を吸いたいとは思わなくなった、と言っていたが。

 3月中には退院できるだろう、と楽観的なことを言うのをまさか後2週間は無理だろう、と受け流して聞いていたが、案の定入院はそれから1ヶ月以上続いている。自撮写真こそ送ってはこなかったが、時々(というより頻繁に)メールに自分の描いたイラストを送って来るようになった。早朝に受け取ったメールには「張り裂けそうな絶望感から脱して」という文言もあって、気持ち的にもどん底は抜け出せた様子に安心した。気力を取り戻すと、もともと創作意欲の旺盛な男なので、日がな暇に任せてイラストを描いては、病室の壁をギャラリーにしているらしい。友人が趣味にしている旧い万年筆・文具の類である(これも『止まった時間の中で』に書いている)。

 さて、少し元気になったところで愛の鞭をくれてやろうか、という意地悪な気持ちも湧いてきた。昨年携帯を換えた際に3,200万画素というカメラを搭載したスマホにしたところ、その接写の美しさの虜になった。特に、食べ物が実にシズル感豊かに接写できる。そうこうしている内に撮り貯めた食べ物の写真も半端な数ではなくなっていった。これを「欠食児童」と化した友人に送り、アドレナリンの分泌を促して、回復を早めてやろう、という下心である。

 案の定、友人はこの写真に反応し始めた。時に垂涎の表情(といってもメールの文面から想像するだけなのだが)を浮かべながら、時に想像の中で立ち昇る香りに恍惚としながら、時に食せぬディレンマに怒りの表情さえ露わにして。こうして、私はただ意味もなく、食べ物の接写を友人に送り続けている。

 一世を風靡した「一杯のかけ蕎麦」は、かなり話としては稚拙ではあるが、人間は自らの記憶の深層にある「食べ物の記憶」に弱いようだ。ツボに嵌ると止めどなく涙が溢れることすら少なくない。私自身は、東京ガスがシリーズで制作している長尺のCMの中の「お父さんのチャーハン」を見ると、必ず涙が出てしまう。母親が不在になると、ひとり娘のために必ず父が作るのは(それしか出来ないから)、溶き卵を冷ごはんに混ぜたのを中華鍋で炒めただけの焼き飯。美味しくないけれども「どうだ、おいしいか」といつも優しい笑顔で、二人きりの食卓で尋ねてくる父に素直に応えることができない。やがて、娘は成長し、反抗期になると、その「お父さんのチャーハン」さえ拒絶するようになる。……が、娘が嫁入りに行く前の晩、父に向かって「お父さんのチャーハンが食べたい」と言う。老いた父は、嫁入り前の娘にいつもの焼き飯を作って「どうだ、おいしいか」と尋ねると、娘は涙を浮かべて頷く。この時の父親、きたろうの寂しげで嬉しそうな表情が実にいい。

 私はどうしてこの話に弱いのだろうか。一人っ子で鍵っ子だった私は、いつも仕事から帰る母親の手間のかからぬ質素な夕餉が待ち遠しかった。母親の帰宅が遅い時は、無骨な父の作る塩辛いだけの料理を砂を噛むような気持ちで食べていた。そうして私が育ったから、いや、そうして育ててもらったから、なのだろう。

 こうして、食べ物には「実存」がある。それは、食べて、ただ消化されてしまうものではなく、私たちのフィジカルな身体を作るのみならず、生きる力や生涯残り続ける記憶として心の糧を形作っていく「確たる存在」なのだ。

 友人が退院したら、私自身が「最後の晩餐」にしたいと常々考えている、ある店の懐石料理をご馳走しよう。

 …と思っていた矢先にまた友人からメールが入る。釣り好きの知人が釣りたての桜鯛を病室に持ち込んでくれることになった、だとぉ? どうも、一本、取られたようだな。



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