エッセイ


頁の忘れ形見 ―『夫婦善哉』を携えて ⑤

投稿日時:2016/01/06 23:31


 今回三泊四日で止まった宿は、阪急梅田駅を更に10分程北に歩いた場所だった。宿と梅田駅を日毎往復する内に、阪急電鉄のガード下に 「カッパ横丁」 なる商店街があることに気付く。これが 『夫婦善哉』 に出てくる 「河童(ガタロ)横丁」 の事なのかは定かでない。大阪弁で 「河童」 のことを 「ガタロ」 と呼ぶが、ガード下商店街は敢えて 「カッパ横丁」 と看板を掲げているので、旧い方言も廃れつつあるのだろうか。昔の大阪は (東京・数寄屋橋界隈と同様)あちらこちらに掘割が存在していたため、 「ガタロ横丁」 も市内に散在していたのかもしれない。

 織田作之助。大正2(1913)年生まれ、昭和22(1947)年、持病の結核に覚醒剤中毒が拍車をかけて急逝するまでの33年の生涯の内、作家活動をしていたのは昭和15~21年の僅か7年間であった。しかも、数本のヒット作の後、昭和15年に 『夫婦善哉』 が一世を風靡すると、戦時下、彼の作品は「退嬰的」として発禁の憂き目に合い続け、書き溜めた作品は、敗戦後になってようやく、戦争で荒廃した大衆に怒涛の如く享け入れられていく。つまり、彼が戦中に書き溜めた作品が、紙面が逼迫する状況の中で、まるで海綿に水染む如く大流行した期間は、敗戦直後から昭和22年1月迄、逝去までの僅か1年半、ということになる。

 新潮文庫版 『夫婦善哉』 の巻末・解説文、作之助と戦前、同人誌を共にした作家・青山光二が記す。

 「つまり織田作之助は、戦争が終り戦後の時代が来たことによって、作家としての態度や、ものの考え方を変える必要が少しもなかったのである。」

 織田作之助という作家は、戦前・戦中の言論抑圧時にでさえ自らの意思を貫き、反動と指弾され作品の発禁の憂き目に遭おうとも、その志、転向することなく、戦前・戦中から戦後の時代の激変に追随する必要が全く無かった、ということである。自由が抑圧された戦中にも「ぶれない価値観」を持続しえた、作家らしい作家の一人だった、といえるだろう。

 本シリーズの冒頭、35年以上前に読んだ 「上方作家」 織田作之助を理解し得なかった過去を告白した。しかし今回 『夫婦善哉』 を携えながらの大阪放浪は、その作家の底知れぬ深さに想い至らされたと言っても過言ではない。それは、未だ嘗て大阪に足踏み入れずとも、尊敬を禁じ得なかった、桂枝雀への愛着と同根といえるかもしれない。実利と本音に支えられた大阪文化を目の当たりにすると、東京を軸とする関東文化圏など欺瞞に思えることすらある。これもNYに6年半駐在しながら日本に対して感じていた、日本文化の持つ「虚空」 の吃水線なのかもしれない。

 「たった、一回」 大阪を訪れただけで、織田作のファンになった。それは、キーウェスト、或はハバナを、一度訪ねただけで、ヘミングウェイのファンになるのと、大差はない。実は、宿と梅田駅を日々往復する内に 「カッパ横丁」 の中に小さな 「古本屋街」 を見つけた。そしてその界隈を往き来しながら、肩寄せ合ったような店舗のショウウィンドウに、ふと 『織田作之助全集』 全八巻が積み上げられてあることに気付いたのだった。東京に帰る朝、しかしその古本屋から織田作の全集は既に消えていた。

 最後の昼飯は、なんば 「はり重」 でしゃぶしゃぶを所望することにした。風情ある木造の料亭の大座敷に佇みて屋外の喧騒を余所に、播磨牛を堪能しつつ、「消えた全集」 に後ろ髪牽かれ、ここ大阪の風土に培われた織田作之助の魅力に心寄せながら、旅愁の最後を味わうひとときは、ひときわ満ち足りた 「作品を巡る旅」 の、貴重なフィナーレとなった。

 ありがとう、織田作。『夫婦善哉』 を携えての大阪旅行は、何事にも変えがたき貴重な思い出となりましたがな。                                       (了)

 

 



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