海上自衛隊の護衛艦のあの灰色の不気味で武骨な船体を思い浮かべると、日本の威信を背負って外洋を巡る随伴者はせめてかくも美しき貴公子であって欲しい、と海洋少年団出身の楽観的平和主義者は、思うのであった。そう、確かに少年団の頃、巡視船に乗せてもらった記憶が蘇った。白い船体にSafty他をもじったSのネイビーブルーが美しく映える。
横濱市の花は薔薇。港の見える丘公園の手前山手寄りに手入れの行き届いた見事な薔薇園があって、週末ともなると多くのシニアがスケッチブックを片手に薔薇の背景にこの建物を描くのがいわば定番の風景となった。
1937(昭和12)年、英国領事館公邸として建てられたこの建物は、アール・デコ様式でありながら、平坦で落ち着いたファサードが薔薇園のバックに描くに相応しい容貌を醸し出している。広いホールと美しい芝に覆われた広い庭はパーティーを開くには最適で、昔から日本人は英国人貴族の優雅な生活を見るごとく、この建物を眺めていたに相違ない。
薔薇の季節は春と秋の二回あるが、やはり五月初頭の頃。美しい薔薇の向こうにこの白亜の洋館を見た瞬間に、スケッチブックを開きたくなる衝動に駆られる。
もともとこの建物は横濱ではなく、渋谷区南平台にあったものだ。ニューヨーク総領事などを務めた内田定槌が建てたことから「外交官の家」と呼ばれる。イタリア山の高台に建ち、石川町駅のホームの南側からよく見える絶好の立地である。
建築家はガーディナーというアメリカ人で、1910(明治43)年に建てられた、アメリカン・ヴィクトリアン様式である。黒人の奴隷労働を基盤に建てられた、ニューオーリンズの「欲望という名の電車」の走る邸宅地の豪邸と同じ様式、ということになる。八角形をした塔屋やバルコーニなど、スケッチを描いていて楽しくなるような設計が至るところに施されている。
内部の家具にはアーツ・アンド・クラフト運動の作品が収集されている。これはイギリスからアメリカへ伝播した、日本で言うところの民藝運動であり、家の主の趣味を伺えて興味深い。
実は、同じイタリア山のこの外交官の家の隣にあるブラフ18番館がお勧めである。二階に小さな図書室があって横濱関連の蔵書を自由に閲覧できる。来訪者が少ない時にはここで横濱の歴史を独り静かに思い馳せる。ジェラール研究の緒となる、飛鳥田一雄の『素人談義・三人ジェラール』の梗概をまとめたのも、ここの蔵書からであった。
実は隣接する山手資料館は、三回の移設を経験しているものの、数少ない1909(明治42)年建築の横濱の洋館である。こちらの山手十番館はレストランとして1967(昭和42)年に創建されたイミテーションに過ぎない。とはいいながらも、やはりアメリカン・ヴィクトリアン様式を真似て洋館然としながら、外国人墓地脇の山手本通りに凜と構えている。
このレストランは、朝7時から夜9時まで定時になるとオルゴールで「赤い靴」のメロディを流していて、元町の住人には時計代わりとなっている。また、横の庭園で夏場のみ開かれるビアガーデンは外国人墓地ごしに市内を眺められる絶好の納涼の場所でもある。庭の隅にはホップの弦が育てられており、裏手の谷の北方町で、麒麟麦酒の前身となるスプリング・ヴァリー・ブリューワリーを興したコープランドにも敬意を表している。
もうひとつ忘れてはならないのは、山手十番館で焼き菓子等を買った際に供される包装紙である。そこにあしらわれているのは、生悦住喜由(いけずみ・きよし)氏描く横濱木版画である。山手在住の98歳は未だにご健在と伺っている。二代目横濱駅と大桟橋を描いた大判の木版画をリビングに飾って、旧き佳き横濱の風景を楽しんでいる。
大桟橋は外国航路の客船で賑わったが、やがて航空機の時代になり、その役割は減じていった。しかし一方でクルーズ産業の興隆により世界中で大型船が建造されるようになると、日本の海の窓口としての役割が再認識されはじめ、2002(平成14)年、国際コンペによる斬新なデザインの大桟橋国際船客ターミナルが完成することになる。
ウッドデッキによるバリヤフリーと天然芝で覆われた曲線的な屋上を歩きながら、停泊中の巨大客船を同じ目の高さで楽しむことができ、そのデッキは心地よいなだらかさと温かさから「鯨の背中」という愛称で呼ばれている。この空間を満喫するには、よく晴れた日に山下公園を散歩しながら、停泊中の客船に誘われるように、ついこの大桟橋へと導かれ、思い切って靴を脱いで裸足でウッドデッキと芝生の感触を楽しむしか他にはない。すぐれた建築物でありながらも、視覚ではなく体験を通して味わうしか術はないのだ。そして、その体験は、こころから、港町に住む喜びを与えてくれる。