1989年4月末、ゴールデン・ウィークを目前に突然38度を超える熱に一週間うなされ続けた。連休が明けても熱は下がらず全身に発疹を生ずる。医師の診断は急性肝炎であった。31歳、漸く仕事にも慣れてきた時期に奇しくも1ヶ月近い長期病欠をとることになった。
病室では貪るように本を読んだ。その中の一冊が徳岡孝夫『横浜・山手の出来事』であった。明治29年に横濱外国人居留地で実際に起きた殺人事件(とされる)を題材にした秀逸なノンフィクションである。
退院後も肝機能が改善されるまで数週間自宅静養したが、仕事に猪突猛進していた身に一瞬の間隙が生まれ、この習作を書き始めた。後半、この事件を軸にしながら、西欧・日本文化の混在する横濱で、神との対峙の中にではなく、事件を契機に社会性の中で目覚める原罪を描いてみたかったのだが、遠藤周作の足元にも及ばぬのは一読の如くである。
☛「もうひとつの十字架」
山中で幼児期を過ごしたせいか、海辺の街への憧れが強い。小学2年の時、苦手な集団行動を矯正しようと思い立った母親は「横濱海洋少年団」に私を入団させた。毎週日曜になると近所の兄貴分に手を引かれ、桜木町まで電車に乗って、生糸検査所裏の本部に行くのが愉しみになった。しかし、私のマイペースは矯正されることなく、私の漕ぐ側にカッターが必ず曲がることから、居づらくなっていつしか止めてしまった。そのカッターを漕いだのも山下公園前の海。今でも懐かしい思い出である。