唐変木の書棚より2

『類』 ― 朝井 まかて 著

 森鷗外、49歳の時に書かれた『妄想』は、その4年前に千葉県夷隅郡大原町日在(ひあり)に買い求めた別荘「鷗荘」(おうそう)が舞台になっている。白髪の老人に自らを仮託した鷗外が、ドイツ留学時代の哲学的遍歴の果てに陸軍軍医総監という世俗的成功の仮面と実存との齟齬に揺れた自らの半生を、外房の海岸を臨む小屋で「回想」するというフィクションだが、60歳で生涯を閉じるその晩年近く、鷗外は子供達を連れてこの鷗荘に屢々遊んだ。幾度かの建て替えを経て、鷗荘の跡地には現在二階建ての白堊の瀟酒な洋館が建っているが、この地で平成3年にひっそりと80歳の生涯を閉じたのが、鷗外の三男坊、森類である。
 鷗外には最初の妻・登志子との間に長男・於兎、再婚した妻・志げとの間に長女・茉莉、次女・杏奴(次男・不律は早世)、三男・類の子らがあった。類は鷗外49歳の時の子、異母兄・於兎とは21歳の年齢差があり、また登志子との確執もあった事から、晩年の鷗外は類を溺愛した。類にとって鷗荘はそんな父との数少ない貴重な記臆の場所だったのだ。
 文豪の末子として生を享けた類は、父親の篤い庇護と(遺された著作権収入を含めた)財産に護られ何の苦労もない、生活力の全くといっていい程無い凡才として育つ。未亡人志げはそんな類の才能を何とか引き出そうと最大限に努力するのだが、類には天賦の画才も文才もましてや商才も無い。常に文豪の息子という世間の色眼鏡に晒されながら、時にその無才ぶりを愚弄されつつも、鷗外に恩を受けた多くの人々が類に手を差し伸べるのだが、その才能が芽を開くことはない。
 親子・親族の確執と悲哀をテーマに描く朝井まかてが森類を題材にした小説を書いたのもムベなるかなと思わせる。実は4年前、鷗荘の近くに書庫兼書斎を得てその存在を知ってより、山崎國紀『鷗外の三男坊ーー森類の生涯』を紐解き、更に唯一と言っていい森類の著書『鷗外の子供たちーーあとに残されたものの記録』を読んで、私自身、森類に魅了された者の一人なのであった。森類の記す文章の素直さ。人を疑うことも、他人と競うことも自らを取繕うことも知らぬ衒いのない実直な森類の文章は読む者の心を打つ。そしてそれが時に仇となって、その後作家となった二人の姉、茉莉や杏奴との確執を生むことになるのだが……。朝井まかては、そんな森類の人間的な魅力と姉弟間の確執を見事に描いていく。私を含めて多くの人々は、例え鷗外のような偉大な親ではなくとも「親とは乗り越えられないものだ」という意識を少なからず抱いていることだろう。そんな親に対する諦念と敬愛の入り混じった複雑な心理を、姉弟の鷗外、志げへの尽きせぬ思慕を軸に、恰もそれを競うかのような姉弟の愛憎ドラマがなぞっていく。
 偉大なる父親を負った波乱万丈の生涯を送る内に遺産の大半を失った森類が、唯一遺された財産である、この潮騒の届く日在の鷗荘の土地に終の住処として白堊の洋館を建てたのはその死の僅か2年前であった。鷗外の『妄想』に投影された鷗外自身の自己追求の厳しい老境の姿とは正反対に、父の愛情の追憶に満たされ、祝福された幸福な晩年だったに違いない。
                           (2020年10月30日)
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