私のクラフトマンシップ案内

代官坂 イチカワ理容室

 私とクラフトマンシップ・ストリートとの関わりはここから始まった。1989年、私は憧れの元町に越してくると先ず生活のために近所に床屋とクリーニング屋を探した。代官坂を本通りから少し上っていくと、三差路に大型船のブリッジのように街を見下ろすこの店がある。その印象をその頃の習作「もうひとつの十字架」に描いている。
 当時の依知川さんは38歳、7つ年上の兄貴である。濱っ子のキップのいい話術に引きこまれ時間の経つのも忘れた。地元の情報を識るには床屋さんと仲良くなること、これは鉄則である。街のいろいろなことを教わった。
 4年が経って私はNY赴任のために元町を去ったが、ジェラール工場「横濱元町山77番」跡にあるマンションへの愛着は強く、借主を探して帰国を期した。やがて6年半を経て1999年暮にここに戻ると、依知川さんとのお付き合いも再開した。そして、「元町仲通り会」が街中に幻想的な雪洞を置いて鮮烈な印象で元町小町フードフェアを始めるのは2000年11月のことである。
 NY赴任中に仲通り会ができていた。依知川さんはその副会長で、そのうちひょんなことから街づくりへのお誘いを受けることになる。2003年の春、仲通り会の花見に誘われた。外国人墓地角にあるウチキパンの二階で、仲通り会の役員の方々と霧笛楼のケータリングを頂きながら、極上の夜桜見物をさせて頂き、会のフレンドリーな雰囲気にすっかり魅了されてしまった。僅かな年会費でコミュニケーションを愉しむことができる、と早速個人会員にさせて頂いた。
 実はこの時「仲通り会」はライブタウン整備事業に取り組むべく法人化を目指していた。2004年夏以降、発起人の一人として法人化事業計画の立案に携らせて頂いた。そして、「商店街振興組合 元町クラフトマンシップ・ストリート」の発足に目途のついた2005年春に、今度はドイツのデュッセルドルフへ赴任することになったのだ。
 2008年秋に帰任してから、私は再び月に一度、イチカワ理容室の椅子に腰を掛けるのを楽しみにしている。高校球児のエースであるご子息も無事に卒業され、依知川さんは還暦を迎えられた。あれから22年が経っている。良き先輩であり、恩人であり、そして友人である。彼の街づくりへの情熱は今も衰えを知らない。

仲通り5丁目 デア クライネ ラーデン

 ご主人の古田さんは大手電機会社の元OLで、脱サラでペーパー・小物を扱うこの店を始められた。女手ひとつで一から自分の店を持つというのも大変な苦労であったと想像するが、彼女の逞しさはそんな苦労を感じさせない。店のホームページこそあるのだが、伝票も在庫管理も今では珍しく、全てマニュアル。IT音痴の故ではない。フェイス・トゥ・フェイスでお客さんに対峙したいという、彼女の信念がそのベースにあるようだ。経済合理性とか打算といったものを超えた接し方をお客さんとしたい、という彼女の店作りの哲学が、そこにはある。
 国内外の展示会などに小まめに顔を出して気に入った商品を買い付ける。蔵書を見ればその人の人柄がほぼ想像できるように、この店の品揃えは古田さんの趣味嗜好そのもの、といっていい。そしてちょっと気の利いたペーパー・小物に魅かれ、この店の虜になってしまうお客さんも少なくない。遠方より遥々尋ねてくれるお客さんが多いのも、古田さんの個性的な店づくりの特色だ。そしてお馴染みのお客さんの好みを聞いて、それに適う商品を探し歩いてくれるのも、お客さんの信頼の篤いところだ。
 古田さんも仲通り会から続く理事のお一人で、これを通じてお知り合いになった。機会あるごとに、よく飲みにいくようになって、彼女の後輩を紹介された。それが家人であり、古田さんは「仲人」である。いわば、クラフトマンシップ・ストリートと結婚した、といっても過言ではない。

仲通り1丁目 グリーンサム

 ドイツには魔女が多い。カーニバルのような土着的色彩の濃いキリスト教を信奉するゲルマン民族には魔女も実在感を持っている。一度、デュッセルドルフで帰宅中のトラム(路面電車)の窓の外を、自転車に乗った魔女が猛スピードでトラムを追い抜いていったのに遭遇し、思わず驚きの声を挙げてしまった。カーニバルではない、普通の日のことだ。どうやら彼女にとっては、出退勤時(あるいは買物時?)の常套コスチュームと見え、それから度々目にするようになったが、トラムの客の顔色を窺っても別に驚いた風もない。魔女を見慣れたドイツ人にとってはさほど驚くべき光景ではないようだ。
 今や元町の「魔女の店」として知られているグリーンサムは、そんなドイツのクリスマス・マルクトを彷彿とさせる魔女の人形達に巡り合える店だ。ご主人の飯島さんは、明治初期の横濱植木商の番付にも出てくる高名な植木商の末裔だが、ナチュラリストの走りで1985年にハーブを扱う店を元町に開いた。ドイツでは、ハーブは薬酒の原料としても用いられており、実はその調合をしていたのが魔女であったと言い伝えられていたことから、奥様の都陽子さんが魔女人形のキャラクターでグリーンサムのイメージを定着させた。因みに「グリーンサム」とは、日本の「花咲爺さん」に似たヨーロッパの民話である。
 飯島さんも仲通り会からの「街づくり」の重鎮のお一人である。巨体に似合わぬ繊細な心遣いの方であり、また酒豪でもある。後に触れることになる、三浦マークの三浦社長とタグを組んで、元町の街づくりの原点ともなった「街づくり協定」策定の立役者であり、酒を酌み交わしながら語る街づくりへの情熱は尽きない。未だに仲通りの街づくりの精神的支柱となっている、陰の功労者といっても過言ではないだろう。
 飯島さんの巨体をご子息が引継いだようで、プロの格闘技家となられているそうだ。グリーンサムは、触れるもの全てを緑の草にしてしまう、というのとはまた別の「奇跡」を起こしたようである。

 2006年4月1日土曜日。元町クラフトマンシップ・ストリートのライブタウン整備工事完成を祝うオープニング・セレモニーが行われた。既にこの前年の春、私は商店街振興組合の発起人としての使命を終え、社命によりドイツ・デュッセルドルフへと赴任していた。この日、根岸森林公園で花見をしていた先輩がその足でこのセレモニーを取材してくれた。
 数枚の写真の中に街の仲間たちの活き活きとした姿、晴々しい笑顔、があった。見違えるように美しく整備された街路。交差点には案内板を兼ねた金属製の銘板が埋め込まれた。この日のために、数年間の気の長くなるような準備期間を経て、街づくり憲章の制定に始まり、フードフェアによるイベント活動、法人化と、クラフトマンシップ・ストリートは地道な努力を積み重ねてきたのだ。休日出勤のオフィスの中で、この数枚の写真を見て思わず涙を落した。
 街づくりには終わりはない。常に一歩一歩前進しながら、よりよい街へと一人ひとりが努力していかなくてはならない。そのためには参加する会員と住民のOne for all, all for oneの気持ちが大切なのだ。元町CSはそのような心を持った人々の集まりだ。改めて、街はそこで商いをし、そこに住む人々によって作られる、という当たり前の事実を痛感するのだった。
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