唐変木の書棚より2

『秋葉原事件 ―― 加藤智大の軌跡』 ― 中島 岳志 著

 2022年7月26日、秋葉原事件の犯人・加藤智大死刑囚の死刑が執行された。
 安倍晋三襲撃事件が未だ捜査中のこの時期の死刑執行には一種の政治的な思惑を感ずるが、裁判を経てもこの秋葉原事件の真相が解明されたとは言い難く、死刑執行の報に接し「またか」という虚脱感に襲われている。獄中で加藤智大の著した4冊の本も、被害者並びに被害者家族を含め、その本当の原因を私たちに詳らかにするに至らず、相次ぐ無差別殺傷事件に引き続き、後味の悪い結末となった。
 血盟団事件など超国家主義によるテロリズムの論考もある中島岳志が事件より3年を経て、第一審での裁判記録や関係者の取材をもとに記した、加藤智大の犯行に至る内面の変遷に迫るこのノンフィクションが、あるいはそんな中で唯一事件の真相に肉迫するものかもしれない。
 エリート志向の異常とも言える母親の教育介入によって抑圧された感情を、言葉ではなく暴発的な行動に繋げることによって建前と本音を使い分けるようになった加藤智大は職業を転々とし、都度然るべき評価を受けながらもこうした暴発的行動から自ら社会的関係を遮断していく。最後には、低学歴・醜態・非正規といった自虐ネタで特定少数のコミュニケーションの成立するネット掲示板に唯一の居場所を見出すことになる。そしてスレッド上の「なりすまし」により唯一の居場所としてのネット上でのアイデンティティさえ喪失してしまう。
 私自身もfacebook上で「なりすまし」の被害に遭ったことがあるが、これほど気持ちの悪いものはない。もし貴方のアバターが誰か第三者によって勝手に操作されネット上でとんでもない言動を繰り返したとしたら、貴方はどう感じるだろうか。ましてやネットを唯一の居場所と考えていた加藤智大にとってそれは許されざることだったに違いない。「なりすまし」による自己同一性の危機に陥った加藤智大は「ネタ」(コミュニケーション手段としての虚構)と「ベタ」(現実)との区別がつかなくなる。そして彼を無視した仲間の注目を再度集めるための「ネタ」としての無差別殺傷実行の「言質」が「ベタ」と化していくのだ。
 これはネットという仮想現実空間に身を委ねている現代人がいつ填まってもおかしくない陥穽である、という警鐘でもあろう。加藤智大を唯一救い得たのは、まさに彼が遮断し続けてきたリアルの人間関係であった。少なからず友人に恵まれた彼が自らそれを絶ってしまったことに、彼を無差別殺傷へと追い詰めた本当の理由がある。
 表層的には進学校に進みながら脱落し、非正規雇用を転々としたことや経済的な逼迫、そして最後は派遣切りなどがマスコミでは本事件の動機とされたが、中島岳志の考察はより人間の本質に迫ったものと言えるだろう。ただし、それもあくまで一つの仮説に過ぎない。加藤智大が獄中で告白すべきは全ての建前を排した、そうした本音であるべきではなかったのか。
 最後に中島岳志の「文庫版あとがき」より引用する。
「加藤にとって、社会から切り離され孤立することは、生きる動機の喪失を意味した。〔中略〕(社会と繋がるための)誰かが現れることは、彼にとって「ミラクル」だった。〔中略〕私たちは、そのような社会に生きているということを、もう一度、客体視しておく必要がある。そして、この加藤のリアリティを直視することから始めなければならない。〔中略〕だから、私は加藤智大のことを、ずっと忘れない。加藤が「しまった」「もっと生きていればよかった」と心底悔しがるような社会を作ることが、この本を書いた私の責務だと思う。」
 そして今朝(7月27日)の朝日新聞朝刊で中島岳志は加藤智大の死刑についてコメントを寄せている。事件から14年が経過しても加藤のリアリティをもたらした格差・貧困といった課題は解決されることなく、社会は変わっていない。それどころか、安倍晋三襲撃事件に至る一連の事件の原点にこの秋葉原事件があることに、再度警鐘を鳴らしている。「加藤君」と中島が呼んでいることがとても印象に残るコメントであった。そう、死刑は何も解決しないのだ。
                                         (2022年7月26日)

『2034 米中戦争』― E・マッカ―マン/J・スタヴィリディス 著

 プーチン・ロシアによるウクライナ侵攻以降、エマニュエル・トッドの指摘を待つまでもなく「第三次世界大戦はもう始まっている」と感じている人は少なくないはずだ。グローバリゼーションの結果、世界各国は経済的には強いサプライチェーンで紐帯される一方で、政治的な自国中心主義や新たなイデオロギーによって分断を深めている。ウクライナ侵攻により色分けされた「陣営」間での制裁の応酬の結果、円滑な経済活動が全世界レベルで阻害されていることが、まさにグローバル化した現代社会のジレンマとして露見し始めている。そんな中、抜き差し難くなった分断が遂に世界大戦を引き起こすという前提で書かれた本著は「次の世界大戦」という副題のついた、2034年に勃発する米中戦争を描く近未来小説である。
 南シナ海への中国の覇権はアメリカとの緊張関係を引き起こし一触即発の状況を生んでいる。2034年3月12日、南シナ海を航行する中国籍の漁船が火災を起こしているのを、示威行動で近海を航行しているアメリカ駆逐艦隊の旗艦が救助することからこの物語は始まる。この漁船にはコンピュータ・システムが積まれていることから諜報活動を疑った司令官は同船を拿捕する。同じ頃、中東ホルムズ海峡のイラン領の際を飛行していたアメリカ海兵隊の最新型ステルス戦闘機が突然操縦不能となってイラン国内に強制着陸させられる。これは中国が同盟国イランを使って、拿捕された船の返還をアメリカに求めるために仕掛けたサイバー攻撃によるものであった。否、諜報活動に見せかけた漁船自体がアメリカとの取引を誘発するための罠であったのだ。中国の目的は中国による南シナ海の主権をアメリカに認めさせることだった。中国による駆逐艦隊の攻撃に対しアメリカは更なる艦隊を派遣するが中国艦隊に撃沈され、戦闘はエスカレートしていく。
 中国、イランの同盟に加え、この機に乗じた同盟国ロシアもNATOの弱体化につけ込んでポーランド侵攻(ウクライナではない!)を強行し、戦争はエスカレートし拡大していく。米中の戦闘は最終的に戦術核の使用による都市爆撃の応酬に至る。そして最後はインドがその仲介を図り停戦が実現するところで物語は終わる。
 中国によるサイバー攻撃によるアメリカの最新鋭戦闘力の無力化、中国による台湾併合、ロシアによる海底ケーブル破断によるアメリカ全土に及ぼすパニック、中国共産党による内部責任転嫁と当事者の抹殺、登場人物間を彩る人間模様、などこのサスペンス・ドラマは結末に至るまで止まることなく、読者に時間を忘れて物語に没入させてくれる。
 原作は2021年に発売されるや忽ちアメリカでベストセラーとなり、私も原典を購入して読み始めようと思っていた矢先、その12月にはこの翻訳が日本でも緊急出版された。まさに、現在の世界情勢を先取りしたタイムリーで旬な小説であると言うことができるだろう。勿論、この物語の「引き金」は中国であってロシアではない。しかし多くの国際政治学者が指摘するように、ロシアのウクライナ侵攻は米中対立の前哨戦に過ぎない、という見方もできるのだ。
 本著の中で、インドが軍事的な強制力を背景に、エスカレートする米中戦争を仲裁し停戦に導く場面があるが、アメリカの安全保障担当大統領補佐官が、「同盟国日本もインドと同様米中紛争に距離を置いてきた」と発言している。ロシアによるウクライナ侵攻に対するインドの姿勢を、今、私たち日本人は歯痒い思いで見ているが、本来は日本もインド同様、中立的立場でこの紛争に対峙すべきなのではないのか。アメリカ、EUと歩調を合わせる事が、日本の安全保障にとってもあるいは平和憲法の精神からしても、唯一の取るべき道ではない筈だ、ということにも気づかせてくれる。これは一例に過ぎないが、第三次世界大戦の危機を目前にした現在、日本の立ち位置を改めて考えさせてくれる示唆に富んだ一冊である、と言えるだろう。
<山田清機『寿町のひとびと』>
 日本の三大寄せ場と呼ばれる大阪・釜ヶ崎、東京・山谷と並ぶ横濱・寿町のドヤにに暮す人たちのドキュメントである。
 ドヤに暮す人たちへの聞き書きを読んで気付かされるのは、彼らは決して「特殊」な生き方をしてきた訳ではない、ということだ。腕利きの職人を極めた人もいれば、叩き上げから中小企業の社長に上り詰めた人や、元翻訳家の米国籍を持ったハーフもいる。一見順風満帆な生活が、アルコールやギャンブル依存、生来の適合障害といった、些細な人生の間隙に嵌って変調を来した挙句、この街にやってくる。それぞれのライフ・ストーリーを辿っていくと、その人生の一つ一つが決して「他人事」とは思えない。そうした人生に支援の手を差し伸べる支援施設のスタッフ、ドヤの帳場(管理人)、角打ち酒屋の主人などは、彼らと適度な距離感を保ちつつも、自らの内に抱えた「危うさ」すなわち自身も彼らと同じ地平に立っている強烈な自覚に基づく「共感と畏怖」という相反する感情に支えられて生きている、という構図が詳らかになっていく。
 ホームレスの支援組織の代表者が語った一言を引用しておこう。
「自分(野宿者)を追い出した社会に戻ることを自立と呼ぶなんて、おかしなことでしょう。野宿者の中には、景気の調整弁として解雇された人もたくさんいるわけです。そいう人が社会復帰する努力をしないと、生きてる価値がないなんて評価される。僕たちの生活は、野宿者のように富をほとんど持たない人が存在することによって成り立っている側面があるんです。価値がないどころか、追い出して申し訳なかったと謝るべきなのは僕らの方なんです。」
 ホームレス支援を行う寿町のバプテスト教会の神父もまた、彼らを前に安穏とした生活を送っている自らを恥じるように、
「(ホームレスに)『お前は何者だ?』と問われたら、頭を下げて『すみません』と謝るしかないのです。」
と語るのである。
 横濱・元町に住む私にとって寿町はまさに「隣町」である。地元の住民と同様に、私も最初は寿町に対して一種畏怖の念を抱いていた。だが、ある日、好奇心旺盛な近所の先輩に誘われて、満を持して寿町を飲み歩いた経験がある。巷間に持たれるイメージとは全く異なり、街往く人々の人懐こさ、飲み屋のスタッフの暖かさに心和まされたことが未だに記憶を去らない。寿町は様々な人生の辛酸を舐めた人たちが交錯する場所であるが故に、寛容であり多様性を許容する風土が培われている、と言っていいだろう。生産性や効率性といった画一的な物差しの上で生きてきた私たちにとって、逆にその画一性から故意または無意識に逸脱した人たちの形づくるコミュニティがいかに心に安らぎを与えてくれるものであり、またコロナ禍で価値観の転換が求められるこの時代に新たな可能性を示唆してくれるものであるかを、しみじみと考えさせてくれる一冊である。
                        (2022年7月11日)

『交通誘導員ヨレヨレ日記』―柏耕一著 他 三五館シンシャ日記シリーズ

 同じ会社に36年間勤めて定年となり「現代の化石」と化した我が身にとって異業種あるいは異なる職種を内側から知ることは不可能に近い。失業保険受給を目当てに再就職活動でいくつかの公共団体を面接で訪ねたことは、これを垣間見る絶好の機会であったとはいえ内実とは程遠いに相違ない。ましてや在職中の取引先との交渉もビジネス上の皮層的なものに過ぎない。
 そんな私にとって柏耕一『交通誘導員ヨレヨレ日記』は新鮮な「模擬職業体験」であった。著者は出版社勤務の後フリーライターの経験もあり、本著出版時点で73歳にして現役の交通誘導警備員である。誰でも身近に接した経験のある交通誘導員の内実を余すところなく伝えてくれる。工事会社の作業員(当然ここにも非正規雇用者が含まれるが)と下請け警備会社の派遣社員としての交通誘導員との関係、交通誘導員の「隊長」とヒラ誘導員との関係、そして同僚たちのさまざまな過去とパーソナリティ。警備業法で定められた業務範囲と業務実態との落差。運転手や通行人とのトラブルやクレーム対応。そして実務経験によって得られる誘導員としてのノウハウ。今後の経済状況に応じて、あるいは自らが経験するかもしれない職種の模擬体験、あるいはマニュアルとしても一読の価値があるだろう。
 こうしたいわばエッセンシャルワーカーたちの仕事の内実をドキュメント風に紹介したものが「三五館シンシャ・日記シリーズ」である。いずれの著者もライターとしての経験があり、副業としてあるいは病気などの転機で正規雇用を外れ、非正規雇用者としてそれぞれの専門性の中で数々の挫折を経ながらも奮闘努力を重ねていく、という読み応えのあるノンフィクションとなっている。特に柏耕一を最年長としてシニア世代、ほぼアラフィフの著者が多く、非正規雇用の直面する問題や高齢化を迎えた日本社会の断面を掘り下げる描写も少なくなく、その筆力に圧倒される。いずれも非正規雇用のエッセンシャルワーカーとして、人間関係に潜む一種の職業差別に抗いながらも、自らの専門性に対する矜持とやりがいに希望と充実感を見出して迎える結末は、非正規雇用に懊悩する人たちにとっても一条の光明を与えてくれるかもしれない。職業に貴賎はない、ということを実感させてくれる。
 実はこの「三五館シンシャ」を立ち上げた中野長武社長自身がロスジェネの辛酸を味わった張本人である。大卒後出版社への就職を希望しながら叶わず、ようやく拾ってくれた三五館という小さな出版社で18年出版人教育を叩き込まれ、その倒産を機にこの会社を自ら立ち上げた。まさにその中野長武社長の意に叶った一冊がこの柏耕一『交通誘導員ヨレヨレ日記』であり、これに続く「日記シリーズ」だったのである。こうした編集者としての熱意がなければ生まれ得なかったこの貴重なシリーズをこれからも読み続けていきたい。
                         (2022年6月29日)

『掃除婦のための手引き書』 ― ルシア・ベルリン 著

<ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』(岸本佐知子訳)>
 CDのジャケ買いなんて20年も前に卒業した筈の私は、書店に積まれた表紙のポートレートに惹かれてつい、この本を衝動買いしてしまった。数々の人生の苦節を乗り越えて来たようでいながら、何処か澄み切って遠くを見詰める眼差し。そう、埋もれた作家、ルシア・ベルリン本人の肖像である。1936年、鉱山技師の娘としてアラスカに生まれ、父の仕事でアメリカ西部の鉱山を転々とし、父が出征で不在の際は、エルパソにある母の実家で歯科医師の祖父、祖母と暮らす。脊椎湾曲症という先天的な持病に加え性的虐待、宗教的軋轢や学校での疎外に悩まされる。後に家族ぐるみでチリのサンチャゴに移住し18歳でニューメキシコ大学に入学。学生結婚で2人の息子を得るが離婚。22歳でジャズピアニストと再婚しニューヨークで暮らすが、夫の友人と駆け落ち。結婚して更に2人の息子を得るも32歳で再び離婚。35歳でカリフォルニアのオークランドとバークレーで暮らし、学校教師、掃除婦、電話交換手、救急救命室の看護助手などで生計をたて4人の息子を育て上げる。この間に陥ったアルコール依存症を克服して刑務所の教官、コロラド大学客員教授を経て、持病の脊椎湾曲症による肺疾患に苦しみ、2004年、68歳の生涯を閉じた。
 まさに波乱と毀誉褒貶に満ちた生涯であった。その中でルシア・ベルリン自身の経験した、様々な体験、持病に基づく偏見、性的虐待、家族持ち同士の不倫、友人の裏切り、母・叔父同様のアルコール依存、人種的偏見、宗教的確執、職業的偏見……などが、短篇小説の形でパッチワークの如く彼女の哀しく逞しい人生の諸相を彩っていく。最後には彼女の命を奪う遠因となる脊椎湾曲症という宿痾と、性的倒錯者である祖父や宗教的偏見に固まった祖母、そしてアルコール依存の母と叔父、目まぐるしい生活環境の変化の原因となった父、といった家族の宿命に打ちひしがれながらも、彼女は常に自らをユーモアを交えて客体化し、苦難の先の光明を見詰めている。それは彼女が青春を過ごしたラテンアメリカの、例えばサンバの持つ哀しさと明るさの表裏一体を思わせるものがある。
 2015年、埋もれた作家のルシア・ベルリンを発掘したリディア・デイヴィスは濃厚に凝縮されたルシアの作品はどの部分を録っても魅力的だ、と書いている。私もそれに倣って、「あとちょっとだけ」という作品の末尾を引用して終わることにしよう。
 つい二、三日前、ブリザードの後にもあなたはやって来た。地面はまだ雪と氷に覆われていたけれど、ひょっこり一日だけ暖かな日があった。リスやカササギがおしゃべりし、スズメとフィンチが裸の木の枝で歌った。わたしは家じゅうのドアと窓を開けはなった。背中に太陽を受けながら、キッチンの食卓で紅茶を飲んだ。正面ポーチに作った巣からスズメバチが入ってきて、家の中を眠たげに飛びまわり、ぶんぶんうなりながらキッチンでゆるく輪を描いた。ちょうどそのとき煙探知機の電池が切れて、夏のコオロギみたいにピッピッと鳴きだした。陽の光がティーポットや、小麦粉のジャーや、ストックを挿した銀の花瓶の上できらめいた。
 メキシコのあなたの部屋の、夕方のあののどかな光輝のようだった。あなたの顔を照らす日の光が見えた。
 これは、メキシコ人と結婚したことから両親より勘当された、愛する妹が長い肺癌の末、主人公の看護空しく孤独に逝って七年後にふと、その妹の面影を幻想の中で目にした瞬間の光景を描いたものだ。美しい情景描写の中に主人公の(作者の)溢れ出る感情をこれほど見事に表現しえた作品を、私は他に知らない

『青色の深い帽子』― 丸山 健二 著

 丸山健二の短篇は「開いている」。決して作者の主題に基づく結論や教訓を読者に強要したりしない。人間の愚かしさ、哀しさをありのままに描き切った上で、読者の心に仄かな火焔の灯るのを待つかのようである。
 丸山健二が「夏の流れ」で、1966年下期の第56回芥川賞を僅か23歳で受賞したという最年少記録は、2003年の綿矢りさに破られるまで続いた、早熟の作家である。その後専業作家となり、長野県伊那郡に移住し長篇を含む多くの作品を世に送っているが、「夏の流れ」に代表される短篇が丸山の真骨頂と言えるのかもしれない。
 「夏の流れ」は平凡な家庭を持つ刑務官の平穏な日常と、死を目前とした死刑囚との交錯を描いたものだが、死刑執行に立ち会う職務を負った刑務官の日常が人間の生死の上に成り立っている、という奇妙な自己撞着の幻惑と緊張感を読者に与える作品である。講談社文芸文庫『夏の流れ』には、本作を含む初期の7つの短篇が収められているが、一度これらに魅了されれば、『丸山健二全短篇集成』全5巻に食指を伸ばさざるを得なくなる。
 その第3巻にあたる『青色の深い帽子』は、1974年から77年、丸山31〜34歳に発表された円熟期の16篇を収める。因みに、『戦後短篇小説再発見』のシリーズに収められた丸山健二の作品は「バス停」(第1巻「青春の光と影」)と「チャボと湖」(第14巻「自然と人間」)の2篇であるが、何れも本第3巻に含まれている。
 「バス停」は、農村を出て都会に働きに出た若い女性が里帰りする話である。母親を含め村人は彼女が都会の工場で働いていると思っているが、実は女性は水商売に身を持ち崩しており、一旦離れた農村の閉鎖的で野暮な生活に対する嫌悪と同情が交錯する複雑な心理が描かれている。「チャボと湖」は、病弱な少年が二階から見下ろす隣家の庭で、独身の中年婦長が飼う五羽のチャボの鳴き声で近隣が迷惑する話である。チャボの庭に現れる一匹の蛇が、かつて母親に連れられてその不倫の現場に立ち会わされた少年の記憶に繋がる。近隣の苦情が重なり、ある日婦長は狂乱の挙句、庭のチャボに熱湯を掛けて殺してしまう。少年にはふと婦長の姿が母親に、そして自らがそのチャボに重なって見えるのだ。
 表題作「青色の深い帽子」は幼稚園の運動会で一人娘の演技に目を細める父親と娘の祖母の場面で始まる。父親は子供の母親を離縁し実母と三人で暮らしている。その離縁の理由が、不治の病を得た妻を親族郎党で追放したことにあると次第に明らかになる。その離縁した妻が病を押して青色の深い帽子にサングラス姿で運動会に現れる。娘と母に内緒で父親はその妻を車で連れ出すが、老人のように皺枯れた元妻は別人のようで、帽子を脱ぐと髪の毛が殆どなかった。「どうしようもないんだ」と父親は苦しい言い訳をして元妻と別れるが、数週間後彼女の死が知らされる。
 70年代という時代背景のせいか、丸山健二の短篇には「都市と農村」を背景にした作品が多く見受けられる。丸山の関心はあくまで人間関係に込められた感情の確執にあるが、そうした状況が70年代の都市化に最も顕著であったから、と言えるのかもしれない。まさに『戦後短篇小説再発見』の目論んだ戦後社会の縮図を丸山が描き出していた、と言えよう。
 15歳の年齢差はあるにせよ、同時代を生きた身には、これらの短篇には何処か「懐かしさ」がある。つまり自らの記憶に重なる部分が少なくないのである。ムラへの嫌悪感と郷愁、音も筒抜けな近隣の騒音、幼児の頃の親の不審行動、家族や親族の持つ無言の圧力……丸山の短篇を読みながら、自分もこうした「風景」を通り抜けてきたという既視感を持つことが、彼の小説の持つリアリティの力なのかもしれない。
                       (2022年4月1日)

『金沢』 ― 吉田 健一 著

 松浦寿輝は謎深い作家だ。松浦の最も「良き読み手」である三浦雅士が文庫版『幽 花腐し』の解説に、吉田健一『奇怪な話』の「化けもの屋敷」と松浦の「幽」の着想の相似性(「本歌取り」)を指摘しているのを読み、ひとつの謎が解けた気がした。膨大なる明治以降のテクスト読解を通じ『明治の表象空間』という文化評論の大著を世に問うた博覧強記のこの元東大教授は、過去の作家たちの主題と文体を消化・吸収し換骨奪胎して自らの創造の糧としているに違いない。松浦の東大退官記念講演・最終講義を収めた『波打ち際に生きる』には、彼の創作の骨肉となっている作家たちの総覧が詳らかにされている。無論、吉田健一もそのひとりである。
 吉田健一は独特の文体を持っている。最も難解な『時間』の冒頭は次のように始まる。
「冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたっていく。どの位の時間が経つかというのではなくてただ確実にたって行くので長いものでも短いものでもなくてそれが時間というものなのである。」
 浅薄な批評家は吉田が幼少の言語発達期に父親の赴任のため長期の海外生活を余儀なくされたために日本語的文体を体得できなかったと指摘するが、これは正しくない。端的に言えば因果関係に基づく論理構成を一切放棄するところに彼の文体に込めた意図が存在するのだ。まさに時間と空間の束縛より解き放たれ、内向的で自足的な充足感を読者にもたらしえる文体の発明、と言っていい。無論、これを忌避する読者も少なくない。
 『金沢』という「小説」の主題と構成がこの文体と不可分であることに気付かされる。神田の裏通りに屑鉄問屋の店を構える内山という男が、別荘として金沢・犀川沿の高台の古民家を借りる。出入りの骨董商に引き連れられて金沢の様々な屋敷で饗応を受けるのだが、現実と幻想との区別もつかない幽玄の世界に都度いざなわれる。これを「小説」と呼ぶことさえ躊躇われるように、何らかの物語が進展するでもなくただ飄々と金沢という街と文化・風俗に主人公は身を委ねつつこれに酔う。登場人物の関係性も不分明ならば、その会話にも禅問答に似た遠謀熟慮と思しき飛躍がある。例えば季節の移ろいについて語り合う饗応先の主人と内山の会話。
 「消えるのは我々ですか、」と内山は言った。「それが別に惜しい訳ではないけれど。」
「山や野原からすればですね、」と主人が言った。「人間がいればそれでいいんでしょう。それがいたことにならないような人間もそういつまでもいるということはない。……」
 読者はエッセイとも小説とも判然としないこの文体によって紡ぎ出される「雰囲気」の中に、しかし着実に取り込まれていくそんな魔力をこの小説は持っている。本著は現代の「方丈記」とも称すべき古典と言っても過言ではない。無論、遁世した鴨長明とは異なり主人公は俗世にあるものの、時空を超越した幻想的な観念世界に縦横無尽に生きている。これが一種の厭世観に支えられているという意味においては、これらに共通する部分があるのかもしれない。
 吉田健一のひと癖ある文体には、何処かウオッシュタイプのチーズに似た魅力があるようだ。
                         (2022年4月1日)

講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見』全18巻

<講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見』全18巻>
 移動中の車内では文庫本を共とするを常としているが、長篇小説を中断するのは心苦しい。乗り過ごしても読み続けたいという衝動絶ち難いことも少なからず。そんな時、愛読する講談社文芸文庫に『戦後短篇小説再発見』なるシリーズがあることを知り歓喜した。短篇小説であれば然程、中断の憂き目に遭わずに済むのではないか。
 「序」に示された編集方針がまた泣かせる。戦後の激しい社会変化の渦中、日本文学が短篇小説という凝縮された表現様式で、旧弊より解き放たれた寄るべなき日本人の生を如何に描き出してきたか。作品の選定基準も、一人の作家につきひと作品。しかも400字詰原稿用紙60枚程度を目安に厳選した、という。選者には、井口時男、川村湊、清水良典、富岡幸一郎という当代一流の文芸評論家を据えたとなれば、比類なき戦後短篇小説のアンソロジーに相違ない。
 当初10巻117篇のシリーズであったが、後に8巻84篇が第二期として追加された(一作家一篇の原則は第一期との重複を1回に限り許容されることになる)。映えある第1巻「青春の光と影」の冒頭に掲げられた短篇が、太宰治「眉山」と来れば、後は推して知るべしであろう。因みに、第2巻以降、全巻のテーマは以下の通り。
 <第2巻>「性の根源へ」 <第3巻>「さまざまな恋愛」 <第4巻>「漂流する家族」 <第5巻>「生と死の光景」 <第6巻>「変貌する都市」 <第7巻>「故郷と異郷の幻影」 <第8巻>「歴史の証言」 <第9巻>「政治と革命」 <第10巻>「表現の冒険」 <第11巻>「事件の深層」 <第12巻>「男と女ー青春・恋愛」 <第13巻>「男と女ー結婚・エロス」 <第14巻>「自然と人間」 <第15巻>「笑いの源泉」 <第16巻>「『私』という迷宮」 <第17巻>「組織と個人」 <第18巻>「夢と幻想の世界」
 いずれも上記4名の選者がそれぞれ単独でテーマに沿った短篇小説を選定しており、各巻末の「解説」で作品選定の「謎解き」をするのも興味深い。「何故この作品がこのテーマ?」というものもあれば、ズバリ直球というのもあるが、ある意味で短篇小説の「読み方」の指南書、とも言えるのかもしれない。また「戦後短篇小説」の潮流が描いた社会の諸相を深掘りした作品群であることを考え合わせれば、これは優れて日本の戦後社会史の露出した断層を目の当たりにしている、とも言えるだろう。
 勿論、読み知った作家の作品もあれば、初読の作家との出会いもある。ただ、短篇小説という特殊性から、初出の文芸誌より後、書籍として収録されていない作品も少なからず存在しており、これらの短篇を丹念に文芸誌より発掘した選者の力量にも感服の念に絶えない。初めて巡り合った作家の短篇に感銘し他作品を渉猟することも、本シリーズを読む愉しみの一つかもしれない。
 残念なことに、本シリーズは現在、絶版となっており古書でしか入手できない。本シリーズの完結した2004年には既に「戦後」という概念自体が時代の遺物となってしまった故であろうか。ある意味で混迷を深めてきた現在、少なくとも現在の日本社会を方向づけた「戦後」というベクトルを改めて振り返ることは決して無駄なことではなかろう。約半年間、車中に本シリーズを開きながら、得られた感銘は少なくない。是非とも復刊を望みたいものである。

『清冽 ― 詩人茨木のり子の肖像』 ― 後藤 正治 著

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
    「自分の感受性くらい」
 詩というものに接したことがさほど多くはない私だが、これだけ素直な言葉で自らを表現し得た詩人を他に知らない。創作が主体の表出であるとするならば、この詩の作者に興味を抱かない読者はまず皆無だろう。茨木のり子。医師の家系に生まれ、男兄弟の中で自立心を育み、温厚な医師と結婚し、子供には恵まれず、夫に若くして先立たれ、79歳で孤独死を遂げる、この詩人の肖像写真には、何処か凛としたその眼差しに逞しささえ感じる。ノンフィクション作家・後藤正治は、数多くの関係者へのインタビューを通して、そんな茨木のり子の肖像を、彼女の詩と同じような平易な言葉で、しかしその感性の機微に触れるように描き出していく。恰も彼女の詩と共振するかのように。
 この評伝を読んで思うことは、私たちの心を打つ彼女の詩の数々が、何ら衒うことも卑屈になることもなく、普通のいち主婦として日常に感じたままの平易な、しかし深い連鎖を持った言葉で響いてくるのは、茨木のり子自身の「品格」のなし得たことだ、ということだ。大正15年生まれなので、敗戦時に数えで二十歳。「わたしが一番きれいだったとき」という詩で、戦争に翻弄された自らの青春を回顧し、その苦い経験をもとに、日常感覚に根差した自己表現を紡いでいくという彼女の姿勢がそれを結実させた。「もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない」で始まる「倚りかからず」の詩にそれは示唆されている。女性として、いや人間として自立するということは、戦争の下で抑圧されてきた日常の「普通の感性」を自らの支柱として自らを語ることに他ならない。
 現在、ウクライナで起きていることを含めて、私たちの日常世界は「常識」では理解できない不条理で満ち溢れている。そうした不条理に「普通の感性」を対峙させることこそ、時代や偏狭な風潮に安易に流されない「自立した生き方」なのではないだろうか。今、茨木のり子が多くの人びと、特に女性の支持を集めている理由は、そこにあるのかもしれない。
 文庫版の解説に梯久美子が書いているように、後藤正治という作家によって茨木のり子の評伝が書かれたことは最大の僥倖といえよう。まさに茨木のり子の感性をそのまま掬い取ったような素直な文体と、響き合う構成に、とても清涼な読後感を得ることができた。日常の不条理に疲れたときにふと手にして欲しい一冊である。
                           (2022年2月28日)

『寿町のひとびと』 ― 山田 清機著

 日本の三大寄せ場と呼ばれる大阪・釜ヶ崎、東京・山谷と並ぶ横濱・寿町のドヤにに暮す人たちのドキュメントである。
 ドヤに暮す人たちへの聞き書きを読んで気付かされるのは、彼らは決して「特殊」な生き方をしてきた訳ではない、ということだ。腕利きの職人を極めた人もいれば、叩き上げから中小企業の社長に上り詰めた人や、元翻訳家の米国籍を持ったハーフもいる。一見順風満帆な生活が、アルコールやギャンブル依存、生来の適合障害といった、些細な人生の間隙に嵌って変調を来した挙句、この街にやってくる。それぞれのライフ・ストーリーを辿っていくと、その人生の一つ一つが決して「他人事」とは思えない。そうした人生に支援の手を差し伸べる支援施設のスタッフ、ドヤの帳場(管理人)、角打ち酒屋の主人などは、彼らと適度な距離感を保ちつつも、自らの内に抱えた「危うさ」すなわち自身も彼らと同じ地平に立っている強烈な自覚に基づく「共感と畏怖」という相反する感情に支えられて生きている、という構図が詳らかになっていく。
 ホームレスの支援組織の代表者が語った一言を引用しておこう。
「自分(野宿者)を追い出した社会に戻ることを自立と呼ぶなんて、おかしなことでしょう。野宿者の中には、景気の調整弁として解雇された人もたくさんいるわけです。そいう人が社会復帰する努力をしないと、生きてる価値がないなんて評価される。僕たちの生活は、野宿者のように富をほとんど持たない人が存在することによって成り立っている側面があるんです。価値がないどころか、追い出して申し訳なかったと謝るべきなのは僕らの方なんです。」
 ホームレス支援を行う寿町のバプテスト教会の神父もまた、彼らを前に安穏とした生活を送っている自らを恥じるように、
「(ホームレスに)『お前は何者だ?』と問われたら、頭を下げて『すみません』と謝るしかないのです。」
と語るのである。
 横濱・元町に住む私にとって寿町はまさに「隣町」である。地元の住民と同様に、私も最初は寿町に対して一種畏怖の念を抱いていた。だが、ある日、好奇心旺盛な近所の先輩に誘われて、満を持して寿町を飲み歩いた経験がある。巷間に持たれるイメージとは全く異なり、街往く人々の人懐こさ、飲み屋のスタッフの暖かさに心和まされたことが未だに記憶を去らない。寿町は様々な人生の辛酸を舐めた人たちが交錯する場所であるが故に、寛容であり多様性を許容する風土が培われている、と言っていいだろう。生産性や効率性といった画一的な物差しの上で生きてきた私たちにとって、逆にその画一性から故意または無意識に逸脱した人たちの形づくるコミュニティがいかに心に安らぎを与えてくれるものであり、またコロナ禍で価値観の転換が求められるこの時代に新たな可能性を示唆してくれるものであるかを、しみじみと考えさせてくれる一冊である。
                          (2022年2月17日)

『駱駝祥子(ロート・シャンズ)』 ― 老舎 著

 開高健の短編小説『玉、砕ける』は、こんな物語である。
 「私」は海外の戦場より日本に戻る際には必ず香港に寄って、親しい友人、張と食事を楽しみながら語り合う。「右の椅子か左の椅子に座らなければ殺す」と言われ何れにも座りたくなければ、相手に何と答えるか、という謎解きを張に投げ掛ける。その時、張は以前、香港を訪れた老舎に取材で革命後の生活を訪ねたところ、それには答えず3時間に亘って滔々と田舎料理の話を続けた、という逸話を紹介する。その後再び香港を訪れ、張に勧められた垢すりの垢玉を持って翌日香港を発とうとした時、空港に見送りに来た張の様子がおかしい。別れ際、老舎が北京で不遇の死を遂げた事を知らされる。ポケットの中の垢玉はいつしか割れていた。
 開高健の小説の中でもこの掌編は特に重要な意味を持っている。1964年に初めてベトナムを訪れて以降、開高健はイデオロギーの間で戦禍に死にゆく人間たちを目の当たりにしてきた。1966年に始まった文化大革命で老舎は反革命分子とされ自殺する。作中の張が老舎に会ったとされるのは日本からの帰国の途であったと記載があるので1961年。この時点で既に、老舎は共産党政権下の行き過ぎた文化統制を予期していたのだろう。老舎来日時に開高健も老舎に会っていることから、滔々と田舎料理の話を聴かされたのは実は開高本人だったのかもしれない。何れにしても、老舎との「出会い」は開高にとってイデオロギー闘争からの決別の契機であったに違いない。
 『玉、砕ける』の作中、老舎に傾倒する張の愛読するのが、この『駱駝祥子』なのである。
 舞台は1930年代の北京。「祥子」という名の人力車の若い俥夫がいた。彼は口下手だが体力に恵まれ朴訥一途な性格。貧しい農村に生まれ早くに両親を亡くした祥子は、北京に出て体力を活かして俥夫を生業にする。最初は元手もないので俥宿から人力車を借りてこつこつと金を貯め、漸く自分の俥を持ったと思えば、禁止されている城外に俥を走らせて割高の料金をせしめようとして、軍の捕虜になって俥も没収されてしまう。その行軍に連行され、隙を見て物資輸送用の駱駝もろとも逃げ出し、これを連れて城内に帰ってきた。駱駝を売って僅かの金を手にしたが未だ俥を買う程でもなく、再び俥宿から借りて商売をする内に、俥宿の親方の、虎娘と呼ばれる不細工な大女の娘に恋慕され、一夜の過ちに乗じ妊娠したと嘘をつかれ世帯を持つ羽目に。行く行くは親方の跡を継いで自分も俥宿の主人になれると思いの外、親方と虎娘の親子喧嘩で、俥宿を出て極貧の生活を送ることになる。虎娘は貧しさの余り産婆も呼べず死産の挙句本人も死んでしまう。その後巡り合った女性とも不運にも添い遂げることができず、祥子は体力も衰え、遂に俥も引けぬ老人となって乞食に身を落としてしまう。
 最初は努力家で素直な若者であった祥子が、数々の不条理な宿命に翻弄される内に、次第に老獪になり人間不信に陥っていくプロセスがありありと描かれていく。本人の努力を凌駕する他者の侵略や悪意、独善といった障壁は、或いは中国の社会的特性であるかもしれない。しかし主人公の祥子は常に前向きに、そして明るくそんな宿命に立ち向かって行こうとする。開高健を引用すれば、それを「ヒリヒリするような辛辣と観察眼とユーモア」で物語る老舎という作家の覚めた眼差しに瞠目せざるを得ない。何故、こうしたリアリストの老舎が文革の反革命分子と目されなければならなかったのだろう。確かに、祥子は「人生の敗者」なのかもしれない。だが、敗者を描き救済を与えることも、文学の重要な役割であるとすれば、文革時代の中国は(そして、或いは現在も)その寛容さを持ち得なかったに違いない。まさに、老舎は二つの椅子の何れかの選択を迫られたのであろう。
 不条理な宿命に押し潰されまいとする祥子の足掻きは、何処か私たちの国のロスジェネに通じるものではなかろうか。祥子の時代の中国も貧富の二極化が進み固定化した時代だった。その意味で、『駱駝祥子』は現在の日本でもっと読まれていい作品だと思うのだが、残念ながら今は絶版になって入手が難しくなっている。
 最後に、私が入手した旧新潮文庫版(昭和27年刊)の訳者、竹中伸は実にこなれた日本語で原著を翻訳していて全く違和感を持たない。老舎を早くから日本に紹介した中国文学者としての彼の功績を併せて讃えておきたい。
                     (2021年12月13日)

『半島』 ― 松浦 寿輝 著

 人間は常に「何か」に縛られて生きている。宿命、過去、世間、職業……。そこから果たして「自由」たり得るのだろうか。
 主人公の迫村は商社勤務を経て大学教師となった中年男だが、その自由を求め大学に辞表を出して、瀬戸内海に面し本土と橋で繋がれたある小さな島に休暇にやってくる。時に幽体離脱したもう一人の自分と対話しながらも、ひと癖ある島の人びとのコミュニティの中に関係性を結んでいく。東南アジア料理店で働く中国女性といつしかわりなき仲となり、彼女の洋館に転がり込むのだが、古い坑道跡の残る島の地下「迷宮」の中をしばしば翻弄され、幻覚に似た体験をする。やがて、島に持ち込んだ翻訳の仕事が終わり東京に戻ろうとした時、今まで親しく接してきた島の人びとの悪意に満ちた「隠された秘密」を知ることとなり、迫村は島から本土に向かう橋の袂に立ち尽くす。
 松浦寿輝の名を初めて知ったのは、6年前『明治の表象空間』という700頁に及ぶ膨大な著書に接した時だった。明治期に遺された凡ゆる公文書や著作からその背景となる思想を抽出し、明治の社会思潮を浮き彫りにした労作であるが、その博覧強記に舌を巻いた。専ら東大仏文卒の文学者の嵩じた評論家(例えば鹿島茂のような)、という先入観が間違いであったのに気づいたのは、4年前『名誉と恍惚』という小説で谷崎賞、ドゥマゴ文学賞を受賞した時で、改めてウィキで調べてみれば、詩人でもあればミステリー批評家でもあり、また童話作家でもある守備範囲の広さに改めて驚かされる。何かの受賞の際にある選者が、多岐に亘る分野での天賦の才に嫉妬さえ覚える……と松浦を評したのを鮮明に覚えている。
 そして手にした本著である。著者あとがきに記すようにこの小説は「中年の寓話」であって「青春期に始めたことを曲がりなりにも一通りやり終えたとき、達成感とは別のある空しさに襲われて、ふと後ろを振り返っては溜息をつき、また前に向き直って足が竦むのを感じ、この先いったいどうしたらいいものかと途方に暮れる年齢があるものだ。」として、自身のその経験の克服のために書かれた小説であることを匂わせている。

 中年ではなくとも人生には必ず訪れるそんな瞬間に読むべき一冊なのかもしれない。幻想小説、あるいは形而上学的推理小説とも呼ばれる松浦寿輝の小説は、博覧強記の著者に相応しく凡ゆる作家の様式美とエンタテイメント性を兼ね備えた読み応えのあるものだ。本著は2007年を最後に絶版となっていたが、来年早々、講談社文芸文庫から再刊行されることが決まっている。何かの呪縛に人生の方向感覚を喪失した時、この本が自分なりの答えを喚起してくれることを祈念して已まない。

                      (2021年12月12日)


『マリリン・モンロー 最後の真実』 ― ドナルド・スポト 著

 Facebook上に”We All Love Marilyn”というグループ・サイトがある。世界中の5万3千人ものメンバー各自が保有するお気に入りのマリリンの画像、映像を毎日数十枚とアップするのだ。勿論、見慣れた有名画像も頻出するが、大半は今まで目にしたこともない数々のショット、ショット……。その多くはカメラマンを前にモデル、女優として取り繕った表情をしているが、時に深い寂寞から出た、あるいは心底からの喜びを伺わせる、そんな「本当の彼女」らしさを垣間見る表情に巡り合うことがある。彼女の僅か36歳の生涯を収めた画像はおそらく天文学的数字に及ぶに相違ない。そして、アマチュア・カメラマンの被写体を含め、プライベート以外のあらゆる瞬間、彼女はモデル、女優であることを「強いられた」に違いない。その間隙に彼女がふと見せるノーマ・ジーンとしての素顔にこそ、人びとは彼女の人生の苦悩を思い、自らの「物語り」を作り上げ、更に彼女に魅了されていくことだろう。
 彼女の生涯そして殊にその死を巡っては、こうして過去に様々な「物語り」が上書きされて真実を覆い隠し続けてきた。ケネディ兄弟を筆頭にした有名人との派手な交際関係、また彼らを首謀者とする、あるいはマフィア、FBIによる謀殺説……多くの無責任な想像と憶測が、マリリン・モンローの真実を歪曲し粉飾してきた。これに一石を投じたのが本著の著者、ドナルド・スポトであり、彼は資料を丹念に漁り関係者の証言を収集し、極力客観的な事実と思しき真実を紡ぎ上げ、彼女の「最後の」評伝を書き上げた。
 ご多聞に漏れずノーマ・ジーンは「不幸な家庭の連鎖」の下に生まれている。彼女の母親自身が父親の早逝と母親の情緒障害の中で育ち、彼女自身も離婚後、私生児としてノーマ・ジーンを産んだ後、精神疾患に罹ったことから、ノーマ・ジーンは里子に出され、更に様々な事情で幾つかの家庭を転々とした。マリリン自身が後日、貧乏で被虐的な里子としての幼女時代を回想しているが、これは事実ではない。そう、それは家庭を点々とするうちに自己演出という保身術をこの幼女時代に本能的に育んだ帰結であったのだ。あるいは女優としての資質は既にこの時培われたといっていいのかもしれない。
 この無意識の自己演出がもう一つの彼女の資質を作り上げていく。弱者として保護を求める彼女の自己演出は多くの「保護者」を生み出していくことになるのだが、魅惑的な彼女への独占的な愛情に駆られた「保護者」たちの間に男女を問わず様々な抗争が芽生えていく。マリリンは自身がその原因であることに気付くことなく、また他人を憎む事を知らない彼女はそのいずれも拒否せず、八方美人的に依存していくことになる。
 16歳で里親の一人に勧められた気乗りのしない結婚をしてこれに破綻した後、マリリンはモデルを経て女優の道を歩み始めるが、常に彼女にはこうした「保護者」いわばパトロンたちが助力を惜しまなかった。だが、マリリンが有名になるにつれ、彼女はこうしたパトロンたちの「餌」つまりは経済的、社会的な利益の源泉と見做されていくところに、彼女の悲劇の源泉が存在する。当時のハリウッド映画界は、演技女優よりもジーン・ハーロウのような金髪のセクシー女優の再来を期待していたし、結局、マリリンが(髪の毛をブロンズに染め直してまで)その「期待」に応えざるを得なかったのも、こうしたパトロンたちの要求に他なからなかった。
 だが現実のノーマ・ジーンは臆病で人見知りが激しく、俳優の養成学校に通い続けたように役作りに真剣に取り組む極めて真面目な性格であった。ドナルド・スポトは非常に印象深いマリリンの親友女優の逸話を紹介している。ファンの待ち受ける宿泊ホテルに一緒に帰る途中、マリリンは彼女に「(ファンの前で)彼女になった私を見たい?」と「マリリン」を三人称として語った、というのだ。つまり、マリリンはノーマ・ジーンという本当の自分が演じている仮面に過ぎない、と考えていた。こうした作為的な「乖離的障害」のような日常がマリリンの不眠を引き起こすほどの精神症を悪化させていった。マリリンは次第に睡眠薬に溺れていくことになる。
 かくしてマリリンの最後の悲劇が引き起こされる。没年の1962年当時、彼女は同時に二人の精神科医にかかっていた。いずれも自らマリリンのパトロンとして彼女の主治医であることを商売のネタにしている精神科医であり、マリリンはそれぞれから得ていた睡眠薬の処方を内緒にしていた。座礁しかけていた新作映画の再開にも漕ぎ着け、二度目の夫であったジョー・ディマジオとの再婚の話が進んでいた夜(だから「自殺」の動機は見当たらない)マリリンはいつものように精神科医Aより処方された睡眠薬を多めに服用したが眠れず、更に精神科医Bに浣腸による別の睡眠薬の投与を依頼した。常用が進んで薬効が落ちていたのである。医師BはAから処方された睡眠薬の服用を確認せずに、看護師に浣腸を命じた結果、マリリンは過剰摂取により翌朝遺体で発見される。これらは併用の許されざる二種類の睡眠薬だったのである。
 いわば医療事故による死であるが、これが解明されることはなかった。医師Bが看護師と共謀し巧妙にその事実を隠蔽したためだと思われる。だが、マリリン・モンローにとってはある意味、これは「必然の死」ではなかっただろうか。常に誰かの庇護に依存し、多くの人の支援を得るものの彼ら相互の利害には立ち入らず、常に彼らとの一対一の関係を優先させたが故の、彼女自身の引き寄せた宿命といっても過言ではない。これこそが、幼女ノーマ・ジーンが不幸な環境の中で育んだ唯一の美徳であったのだとすれば……。

 多くのマリリン・モンローのファンのみならず、波乱万丈に満ちた「ある女性の生涯」のドラマを満喫したい読者にとって、「最後の真実」に巡り合える必読の一冊であると言えよう。

                       (2021年9月28日) 


『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』 ― 戸部 良一 他共著

 1984年の刊行後ベストセラーとなり、今日に及ぶまでロングセラーとして読み継がれている本著に今更、改めてコメントを寄せる必要はないのかもしれない。日本軍の敗因分析を日本組織改革の轍とした、この組織社会学の名著はこれまでも数多くの企業・官僚組織のリーダー達に推奨され、「コンティンジェンシー・プラン」や「グランド・ストラテジー」といった、組織経営論で昨今頻用される用語も、本著がその魁となっているのではなかろうか。
 本著では、ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦、という6つの具体的な「失敗事例」を取り上げながら、敗戦を導いた日本軍の組織的欠陥の本質を組織論的に詳らかにしていくのだが、試しに、陸戦での、敗戦へのターニング・ポイントとされるガダルカナル作戦に見られた「失敗の本質」を、この1年半余に及ぶ行政組織のコロナ対策と対比させてみることにしよう。
 ● 海路による戦域拡大を主張する海軍と兵站重視の陸軍間の戦略目標の齟齬
  → 保健行政の主体である各自治体と国との二重構造によるコロナ収束への
    道筋の考え方に関する齟齬
 ● 水陸両用作戦を準備していた米軍の情報・認識不足
  → コロナ・ウィルスを熟知した専門家の科学的・客観的な意見の感染対策
    への不十分な反映
 ● 海戦の損害による陸上兵站輸送船の途絶
  → コロナ・ウィルス感染拡大が想定される中での病床確保に向けた先取的
    対策の懈怠
 ● 不利な条件下での短期決戦戦術指向による過大な兵員損失
  → 非常事態宣言、蔓延防止等重点措置の短絡的な解除による感染再拡大
 ● 作戦連携を必要とする支隊間の連絡不備による統一行動の乱れ
  → 人的移動を伴う各自治体間の連携不足
 ● 現地参謀の意見具申を聞かない大本営の戦略立案と実行における場当たり
   的変更
  → 国と自治体の意思疎通の不備による感染対策決定上の混乱
 ● 戦況の客観的分析に優先する皇国精神論に基づく無理な作戦強行
  → 専門家の科学的感染予測に基づく見解を軽視した、Go To キャン
    ペーン、オリパラ等の実施
 ● 降伏を認めず玉砕するまで戦わせることによる戦傷・死兵の無駄な増大
  → 「医療崩壊」を「在宅医療」と呼び変えることでの罹患不安の緩和と
            犠牲の隠蔽
 ● 第一次攻撃の大敗の要因分析を第二次攻撃の戦術への反映させられぬ
        フィードバック機能の欠如(意思決定の硬直化)
  → 無為無策のままの緊急事態宣言、蔓延防止重点施策の発令解除の繰り
            返し、ワクチン一辺倒の他対策放棄

 以上の試論のみで、私の論旨はほぼ尽くされたことだろう。つまり、この国の行政組織、更にはリモートワーク等の感染対策の責務を負う企業組織を含めて、この国の組織は、敗戦を喫した日本軍の組織と「未だに」何ら変わる事がない、ということである。歴史修正主義者や反知性主義者たちが、歴史的事実や客観的根拠を隠蔽・偽装しつつ、日本のあるべき方向性を示すこともできず、先の戦争と同じ構造の中でいかに「国民に犠牲を強いている」かを、改めて本著を熟読し、考え直して欲しい、と強く念ずるものである。まさに本来の意味での名著、といえるだろう。

                      (2021年9月26日)


『百歳以前』 ― 徳岡 孝夫 / 土井 荘平 共著

 「男おひとりさま」は上野千鶴子の登録商標のようなものだが、『おひとりさまの老後』(女性版)に較べると、どうも男性に対する彼女の偏見には違和感を覚える。確かに、女性の(しかも、然るべき社会的自立を果たした……という前提があるにせよ)「おひとりさま」が、家庭をはじめとする社会的拘束・紐帯から解き放たれて自由であるのに対して、男性の「おひとりさま」は過去の社会的地位や名声に縛られてその落差に埋没し、悲哀に満ちた老後を送る事例が多いのかもしれない。だが、本来の「男おひとりさま」とは、図らずも松尾芭蕉が僅か45歳の若さで『奥の細道』にその老成を自演したように、怒涛の半生より得られた経験と思索に裏付けられた、閑かな自省的時間・空間を生きることなのではないだろうか。
 私が徳岡孝夫と巡り会ったのは、明治29年に横濱外国人居留地で起きたイギリス人の毒殺事件を扱った『横浜・山手の出来事』であった。これはノンフィクションでありながら日本推理作家協会賞を受賞する力作で、毎日新聞記者として培った取材力を遺憾なく発揮した名著だが、後年、昭和45年の三島由紀夫の自決の際に事前に三島から市ヶ谷での取材を誘導された数少ない記者の一人である事を知った(『五衰の人ーー三島由紀夫私記』に詳しい)。つまりは記者出身の執筆者でありながら実に多彩な経験と奥行きを持った作家である。
 その徳岡孝夫が91歳となり、もともとの視覚障害が昂じて、とうとう視力を失った。そして共に愛妻を亡くした旧制中学の同級生、土井荘平との交流が始まる。徳岡の問わず語りを電話経由で録音し、これを土井が書き起こしながら、自らのエッセイを重ねて22篇としたのが本著である。『横浜・山手の出来事』で示された、舌を巻くような徹底した行動力と取材力の源泉が徳岡のエッセイからは滲み出てくる。ベトナム戦争、紫雲丸事故、テルアビブ事件、ネール首相の死、といった海外を含む取材の臨場感が土井の「聞き書き」によって蘇る。保守的論客で知られた徳岡にはもともと辛口の評論が多いが、「聞き書き」の効用であろうか、無駄のない端的でいて切先鋭い11篇のエッセイは強烈な印象を残すものばかりである。
 では一方の土井荘平はただの添え物かというとさにあらず。プロファイルを見ると商社でサラリーマン勤務をしたあと、老後の趣味として小説、短歌、俳句を発表し始めたようだが、そのエッセイにはなかなか枯れた味わいがある。惜しくも早逝してしまった神吉拓郎が91歳まで生きていたら、きっとこうしたエッセイを書いていたに違いない。まさに徳岡との好対照の味わいがたまらない。

 『百歳以前』という少し変わったタイトルは「百歳を前に」といった程の意味だろうが、何処か「図らずも91歳まで生きてしまって……」という羞恥心を感じさせる言葉だ。多分この恥じらいこそが「男おひとりさま」の矜持とも言うべきものだろう。元新聞記者と元商社マンという過去の鎧を脱ぎ捨て、それぞれが培ってきた経験と哲学を老成の時代に交流させることによって、新たな友情が育まれていく。シニア・ライフを迎えた男性には、いかなる老後のハウツー本よりも、心に迫るリアリティを感じさせる一冊となるのではないだろうか。

                    (2021年9月23日)


『素晴らしきラジオ体操』 ― 髙橋 秀実 著

 中学時代、体操部の同級生Fさんに淡い憧れを抱いていた。
 彼女は朝礼の際、数百人もの全校生徒を前に、演台の上で「ラジオ体操」のリーディングをしていた。長身でボーイッシュなショートヘア姿のFさんは、ラジオ体操の曲に合わせ、体操着姿で颯爽と統制の取れた模範演技で私たちを導いてくれた。しかも、左右逆の動きで。凡そ体育音痴であった私にとっては異次元に咲く花であった。
 初等教育で得たものの恩恵について自覚的に感謝することは少ないが、ラジオ体操はその唯一の例外かもしれない。夏休みラジオ体操会に始まり、小・中学校を通じて繰り返し強いられた同調圧力を、私は寧ろ厭わしく思っていたし、そもそもたった10分足らずの体操にどれほどの効用があるのか疑問にも感じていた。だが、定年で通勤から解放され運動不足で体の硬化するこの齢となって、はじめてラジオ体操の効用を痛感させられたのだ。小・中学校を通じて自らの身体に染み付いたラジオ体操が、シニア・ライフにこれ程の恩恵を与えてくれるものだったとは……改めて、ラジオ体操を身に付けさせてくれた初等教育に今、深く感謝している。毎朝、6時半の体操を励行しながら。
 そう思いつつ「ラジオ体操」について調べてみると、関連資料の少なさに驚かされる。そんな中漸く巡り会ったのが本著である。朝6時半、近所の公園で揃ってラジオ体操に打ち込む「ラジオ体操人」達のルポに始まり、昭和初期に始まるその歴史と変遷、その中で生まれた多様性、そしてこれらを作り出した人びとの発言録とインタビュー。10分間の励行の中で日々感じる疑問や直感に充分応えうる内容のノンフィクションである。
 昭和初期、はじめてのラジオ体操の放送を導いたのは、文部省ではなく簡易保険局とNHKであった、というのも意外であった。審査の無い簡易保険は加入者の死亡率が高く事業性が悪化していた。その解消に目をつけたのが、大正末期にアメリカ、メットライフ社の始めた「メトロポリタン体操」だった。これにより加入者の健康寿命が延び、保険料収入が安定したことに倣ったのだ。これを真似て日本でも「国民保健体操」が昭和3年より放送され始める。その後幾度かの改訂が加えられると同時に、戦時色が強くなるに連れてラジオ体操も皇国史観による国民の思想統制に利用される時代を迎える。だが、その人気は国民に裾野を広げ、「○○体操」なる多様性が生み出されたのもこの時代であった。
 戦後、GHQによる占領政策下で、戦争中の思想統制としての機能が問題視され、数年間中断することになるが、既にラジオ体操に慣れ親しんだ国民の強い要望に応える形で、現在のラジオ体操が生み出されていくことになる。
 「ラジオ体操」を巡る実に見事なノンフィクションであるが、現在のラジオ体操を主導したと言われる生前の遠山喜一郎氏へのインタビューに興味深い一言が記されている。
「ラジオ体操はすべてその動作にその“間“を入れてある。間とは無用の用だ。人間は空白の“間“で安心するんだよ。」

 これは例えば、ラジオ体操第一の最初の「背伸びの運動」で上に伸ばした両腕を下ろす際の“間“の事を言っている。今も、国民を魅了し続け、日々早朝6時半の体操に向かわしめるラジオ体操の魅力の本質は、そんな所にあるのかもしれない。まさに、体操を通じて垣間見る日本人の文化論、とも言うべき一冊である。また、創始者たちの愉快な人物描写にも目が離せない。

                  (2021年9月16日)


『天子蒙塵』 ― 浅田 次郎 著

 「蒼穹の昴シリーズ」と呼ばれる一連の中国近代史小説の最新作。清朝末期を描いた『蒼穹の昴』は正直なところ第一巻の半ばで挫折してしまった。浅田次郎の「壮大な構想」に思い至ることもなく、余り興味を持てない清朝の科挙や宦官が登場する「導入部」に倦んでしまったのである。その私が本著を敢えて手にしたのは、満洲国建国に至る日中の確執、正確に言えば「眠れる獅子」中国に巣食い侵略を進めていった帝国日本の「暴走」に興味を抱いているからであった。この『天子蒙塵』は正に、紫禁城を追われた後、関東軍により満州帝国の皇帝に担ぎ上げられていくラスト・エンペラー・溥儀を「軸」に物語が展開していく。

 『蒼穹の昴』の時とは異なり、読み始めて、あっという間に「浅田マジック」に絡め取られてしまった。張作霖の爆殺後、対日戦線の首領として期待されながら関東軍の策謀を見抜いて敢えてこれを静観し、その葛藤の余りアヘン中毒と化した張学良の欧州留学の船上から物語は始まり、溥儀の皇妃(第二夫人)であった文繍(ウエンシウ)の離婚訴訟に関する記者のインタビューにより溥儀の人物像を周縁から炙り出していく。そしてまさに『蒼穹の昴』の冒頭に少年として登場する梁文秀(リアンウエンシウ)、李春雲(リイチユンユン)を始め溥儀とその周辺に関わった様々な中国人、日本人の眼を通して多層的・多角的に物語を展開し、深掘りしていくという例の「浅田マジック」である。

 実は本著を読む前に松本清張の長編『昭和史発掘』を再読したばかりだった。共産党弾圧から始まり、五・一五事件、二・二六事件へと至る軍部の独走と強権政治に向かっていく日本国内の昭和史と本著の中国近代史はまさにパラレルに連動している。『昭和史発掘』の重要な登場人物、永田鉄山と石原莞爾も、本著の中で「生身の人間」として描かれている。松本清張が、発掘した様々な史料を通して透かし彫りしていく客観的な彼らの姿としてではなく。これが(史料を駆使しながらも)歴史上の人物を想像の中で活写していく浅田・近代史小説の真骨頂といっても過言ではあるまい。

 そしてもう一つ、本著を通じて浅田次郎が大切にしていることに気付かされる。私はある意味で「日本人から観た中国近代史」を期待していたのだが、浅田次郎の視座はあくまでも「中国人から観た中国近代史」である、ということだ。勿論、登場人物に幾多の日本人が登場し物語の「語り部」となるが、それは物語の骨格を形作る作業であって、物語に情緒を与える内面的な独白は常に中国人登場人物の「語り部」に委ねられていることに注目すべきであろう。これは浅田次郎という日本人が文化・思想・歴史観を異にする中国を内省的・文脈的に理解するためのひとつの貴重な方法論、とも言うべきである。
 本著の解説に近藤史人が記すように『蒼穹の昴』は中国語にも翻訳され、中国における西太后の評価を転換させるほどの影響力があった、という。そして氏の記すところによれば、「蒼穹の昴シリーズ」はまだまだこれからも続いていくことが示唆される。遠からず改めて「浅田マジック」に没入する日を楽しみにしたい。それまでの間、張作霖を軸に描いたとされる『中原の虹』に時を遡ることにしようか。
                         (2022年8月8日)

『この三つのもの』 ― 佐藤 春夫 著

 松本清張が『昭和史発掘』の一章を割いて、芥川龍之介の自殺とともに、わざわざ谷崎潤一郎、佐藤春夫間の「妻君譲渡事件」に充てた(「潤一郎と春夫」)のは一体何故だろう。龍之介の「漠然とした不安」が、来るべき二・二六事件とその延長線上にある関東軍の暴発と大陸侵略を予感した作家の鋭い時代感覚を示唆する一方で、それは何か唐突な感を否めない。

 谷崎と佐藤は師弟とも親友とも言うべき堅い紐帯で結ばれている。売れない三文詩人・作家の佐藤を推挙して世に送ったのは既に作家として名を為した谷崎であったし、全く正反対とも言える性格の二人は相互に尊敬し補完し合う関係にあった。その谷崎の最初の妻・千代を、鮎子という娘を含む両親族と本人の同意の下に佐藤に「譲渡」(谷崎と離婚の後、佐藤と再婚する)するという一見不可解な「事件」(と世間は捉えた)の顛末を記したのが本作品である。

 無論、各当事者間には表出しえぬ感情の確執は存在した筈であるし、これを第三者として諸資料に基づき客観的に記載したものが、松本清張の「潤一郎と春夫」であるとしても、そこに不思議と本作品の引用が多い事実を鑑みるに、佐藤はかなり事実に忠実に本作品を著した、と少なくとも松本清張は判断していることが判る。

 若き谷崎はお初という向島芸者に心惹かれていた。自由奔放で男勝りな初は谷崎の結婚申し入れに対し、年齢が上であることに加え結婚で縛られることを忌避してこれを断るが、それでも頑なな谷崎に自分の妹の千代との結婚を勧める。惚れた女への一念で、谷崎は同じ性格の姉妹と思い込み、碌に面識もない千代との結婚を受け入れてしまうのだが、結婚してみて千代が初とは全く正反対に、夫に盲従的で典型的な日本人妻である事に気づき即座に愛を失う。だがそうこうする内に、鮎子が生まれ、今度は初に性格の似た千代の妹・せい子(義妹として同居していた)との不倫関係に陥り、当初より谷崎の千代に対する加虐的な所業を目の当たりにし、千代への同情を寄せていた佐藤がこれを仲介する役回りを負わされる事になる。

 谷崎は生涯一貫して初やせい子のような男性を手玉に取るほどの自我に目覚めた女性への憧憬を捨てられなかった。せい子をモデルにした『痴人の愛』を始め『卍』『蓼食う虫』といった性的倒錯や不倫を描いた作品は、こうした谷崎の異性衝動に支えられている。一方で、本作品の佐藤は、谷崎同様の自由奔放な女性との結婚を繰り返しながらもその自由恋愛観(相手の不倫)に苦悩し、潤一郎と千代の仲介をしながら実は千代のような逆境にめげぬ忍耐強さを持つ従順な伴侶を求めている自分に気付かされていく。谷崎は千代との離縁の手段として佐藤を利用しようと考えている。しかし、谷崎と佐藤の関係は単に相互に利己的なものではなく、ある意味では、谷崎は真摯に千代と佐藤の幸福を願い、佐藤も千代と谷崎の望ましき関係を模索し、嫉妬や愛憎の感情を超越しようとしている所にこの「静謐な三角関係」が生じる基盤がある。 詩人でもある佐藤春夫はこの作品のタイトルにハイネの詩を引く。

「まことの恋と友情と智恵の石と/この三つのものを世間では宝だと言いそやす。/私はずいぶんと捜すことはしたのだ。/が、ついぞ一つもお目にはかからぬ」

 まさに佐藤なりに「恋」と「友情」と「智恵の石」を同時に真摯に追い求めた痛烈な経験の結晶した作品だといえよう。因みに佐藤の有名な「秋刀魚の歌」は谷崎の下にある千代と鮎子の面影を独り身ながら偲んで詠んだ詩である。

 冒頭の問題提起に立ち返ってみよう。松本清張は『昭和史発掘』の核心を本章に続く二・二六事件に置いて陸軍内の統制派と皇道派の内部抗争が皇道派の暴走を生んでいく過程を丹念に追っていく。そこに描き出されていくのはお互いの主義主張を議論で戦わせることなく、怪文書で身内を扇動し仮想敵を作り上げた挙句、無言の暴力で仮想敵を抹殺しようとする暗黒のテロリズムの泥沼である。そしてその陸軍のエトスは二・二六事件以降も関東軍の暴走という形で日中戦争へ、そして太平洋戦争へと連鎖していく。もしも、そこに谷崎と春夫が何年にも亘って培ってきた「間隙を埋める努力」さえあったらなら、……という清張の思いを読み取ることは難しいだろうか。そして、それは今の時代にこそ、求められているものなのかもしれない。

                        (2021年7月25日)

『昭和史発掘』「京都大学の墓碑銘」「天皇機関説」― 松本 清張 著

 学生時代に通読した松本清張『昭和史発掘』を40年を経た今になって再読している。その時、亡父の蔵書にあった単行本はその後再版を繰り返し、今日も文春文庫全9巻に収められている。大正15年、後に首相となる田中義一大将の政界進出の際の軍事機密費の横領疑惑(「陸軍機密費問題」)に始まり、昭和11年の2・26事件に至る時間軸に起きた様々な事件を繋ぐ日本近現代史の底流を炙り出すこの労作は、その「底流」が今も命脈を保ち続けている、という意味で色褪せることはない。
 例えば所謂「滝川事件」を扱った「京都大学の墓碑銘」では、昭和3年の共産党弾圧事件を経て思想統制を強めた政府が、帝大の自由主義教育者を排除していく経緯が検証される。共産党員の一斉摘発によって勢いを得た右翼は国粋的国会議員に圧力をかけ、学生社会運動の温床となっていた大学自治の見直しを政府に迫り始め、その手始めに京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が講演会で行った内容が無政府主義として血祭りに上げられる。滝川教授の唱えた「客観主義刑法論」とは、犯罪によって生じた損害の大小によって刑罰量定が行われるべきであり、個人的事情を考慮すべきではない、といった今日では常識的な主張であるといえる。だが、保守的立場からは再犯性の可能性など考慮した上で国家体制の秩序維持のために裁判官が主観的に刑罰量定を行うべきだ、と批判を浴びたのだ。
 ロシア革命を経て大正11年にソビエト連邦ができて以降、昭和初期の大不況を経てこれに刺激を受けた日本の無産者運動が過激化する中、当初共感を寄せていた世論も次第に反共へと靡いていく時代であった。国会での保守派議員による何ら合理性の無い感情的議論による滝川批判がやがて政府を動揺させ、文部省が京都帝大に圧力を掛け始める。滝川教授の罷免を求める文部省側に対し京都帝大側は学問の自由と大学の自治を盾に抵抗するが、人事権を武器に文部省は揺さぶりを掛け、結局、法学部教授全員が辞表を提出してこれに抵抗する事になる。
 結局この事件は法学部教授会の分裂によって滝川教授を含む一部教授の退職によって曖昧なまま決着を見る結果となったが、文部省と教授会の板挟みになった総長が最後まで毅然とした抵抗を示し得なかった事により、これに続く美濃部達吉の天皇機関説事件へと繋がっていく。まさに、学問の自由が政府の思想統制の軍門に降った瞬間であったといえる。

 この一編を読んで昨今起きている「日本学術会議」の任命拒否問題を思い起こさぬ読者はいないだろう。実は私が40年の間隙を経て『昭和史発掘』を再読している理由はここにある。そう、80年余の歳月を経て日本は再び「あの時代」をなぞっているのだ。松本清張の史観はその直観の鋭利さと史料の読み込みの先の深い想像力のなせる業にある。昭和40年代に何故、松本清張はこの長大な近現代史に情熱を傾けたのだろう。それは、松本清張がこの「暗黒の時代」の再来を予期していたからではないだろうか。彼の歴史的直観は、当時にして既に戦後の高度経済成長の先にある、日本の民主主義の荒廃と終焉を視野に捕らえていたからこそ、昭和以降を生きる私たちに「警鐘」としてこの作品を遺したに違いい。……と、私は考えている。

                             (2021年5月19日)

『渋沢栄一』 ― 鹿島 茂 著

 未だ色褪せる事なき、マハトマ・ガンディーの教えの一つに「七つの社会的大罪」がある。

    理念なき政治
    労働なき富
    良心なき快楽
    人格なき学識
    道徳なき商業
    人間性なき科学
    献身なき宗教
 人間は謂わば本質的に利己的な生き物であるが故に他利あるいは共益を常に考うべし、という教えであろうか。正に渋沢栄一の言う「論語と算盤」は、この「道徳なき商業」を戒めたものに他ならない。
 仏文学者の泰斗・鹿島茂が(博覧強記の鹿島に肩書きを与える事さえ憚られるのだが…)何故、渋沢栄一伝を著したのか。実はそれこそが著者の最も含む処である。農民の身分ながら幕末の尊皇攘夷運動に血道を挙げた栄一は、ヒョンなことから(よりによって倒幕対象側である)一橋家に召し抱えられる事となり、1867(慶応3)年開催のパリ万博に幕府名代として参加する徳川昭武(慶喜の弟)に随行してパリに派遣される。実はそこで栄一が「サン=シモン主義」の洗礼を受け、これを明治期以降の様々な興業や産業界の育成に活かしていった、というのが鹿島の「仮説」なのだ。
 大河ドラマ『青天を衝け』にも登場したように、栄一にとって代官に上納金を強要された屈辱が、幕藩体制を支えた身分制度を打破する強い動機になっている。水戸学に染まり尊皇攘夷運動に身を投じたのもその故だが、一見矛盾する一橋家の家臣となることで、幕末の慶喜に間近に接し、武力革命から経済革命へと発想を転換していく。富国のもたらす市民の平準化とそれによる身分制度の撤廃によって、青年期の理想を実現しようとする渋沢栄一の生き方が活き活きと描かれる。
 渋沢栄一が足を踏み入れたパリは、先行するイギリスの産業革命への遅れを取り戻そうとナポレオン三世主導のもとサン=シモン主義による「階級闘争を超えた融和的な産業化」政策のただ中にあった。キリスト教的友愛に支えられた共助的な理想社会を提示したサン=シモンの後継者たちの掲げた産業化モデルである。産業化後進国の日本にとってまたとない範、と栄一は考えたに違いない。
 農民ながら知的環境に恵まれ育った栄一はフランスで目の当たりにしたこのサン=シモン主義に基づく産業化を、経済活動における「論語」的倫理の浸透によって日本で実現しようと考えた。それは必ずしも明示的なものではないが、明治期以降、様々な興業への栄一の関わり方から炙り出していく手法も、鹿島茂の渋沢栄一伝の妙味と言えよう。
 鹿島茂の本著は、渋沢栄一の「生きざま」というよりは、その思想史を辿ったものと言った方がいいかもしれない。鹿島茂自身が言うように、妾たちに婚外子を産ませたような渋沢栄一の豪傑としての「生きざま」に興味があるなら、城山三郎の『雄気堂々』を紐解く方が良いに違いない。栄一の行動は一見、皮層的で矛盾したものに見えるのだが、その思想の根底を成す渋沢的「合理性」を浮き彫りにしている点で、この文庫本千頁に亘る大著は渋沢栄一を理解するための必読書と言えるだろう。また鹿島茂の博覧強記は、その考え方の背景を飽くことなく詳らかにしてくれる。
 渋沢栄一は後年、晩節を賭して生涯の恩人・徳川慶喜伝を作成させている。鳥羽・伏見の戦いに際し、大坂城より突如江戸に逃亡してしまった慶喜を私たちは優柔不断と一刀両断にするが、渋沢栄一は評伝によってその汚名を晴らそうと考えた。恐らくは大政奉還による新時代への幕引きの汚名を一身に引受ける覚悟をした上での行動であると思われるが、明治になっても慶喜は決してその真意を渋沢栄一に語らなかった、という。温厚な人柄ではあったが、同じ信念を渋沢栄一も生涯、心中に抱いていたに違いない。
 3年後、一万円札の図柄は福沢諭吉から渋沢栄一に交代する。その意図するところは「道徳なき商業」からの脱却、という謎解きなのかもしれない。。……と、私は考えている。
                   (2021年5月10日)

『警視庁草紙』 ― 山田 風太郎 著

 私が推理小説、時代小説に手を染めぬのは偏に作為的な物語構成に何らリアリティを感じないからで、その意味では山田風太郎は予てより遠い存在だったのだが、朝日新聞夕刊に連載されていた『あと千回の晩飯』を読んで唯ものならぬ気骨とユーモアを感じていた。そんな私がふと手にした『戦中派虫けら日記』並びに『戦中派不戦日記』を読んで、不遇な家庭環境下、戦中の肉体的・精神的飢餓状態にもめげず苦学医学生として働きながら戦禍に翻弄される山田の青春を追体験するように惹き込まれた。それは、戦争を全く知らない私に本当の意味での戦争の悲惨さと愚かさを痛感させてくれた「戦争の生きた記録」であった(無論、山田は出版を前提として一部フィクション化していると指摘はされているが……)。

 そんな私が再び山田風太郎に目を向けることになったのは、『逝きし世の面影』を書いた渡辺京二の歴史エッセイ『幻影の明治ーー名もなき人びとの肖像』の中で、山田風太郎の「明治小説全集」(ちくま文庫版・全14巻)を絶賛していたからだった。歴史上交錯した筈のない実在の人物がフィクションの中で交わりながら様々な事件を織り成していく物語なのだが、渡辺は、登場人物の時代設定がきちんと踏まえられ、更にその人物に関する史料を徹底して読み込んでいるので「もし」実際にこれらの人物が出会っていたら、こうした事件が起きていてもおかしくない、と思わせるリアリティがこのフィクションにはある、と指摘する。あの歴史家の渡辺京二をして斯く言わしめたことに背中を押された。
 その「山田風太郎 明治小説全集」の冒頭を飾る2巻『警視庁草紙 上・下』である。時代は征韓論に敗れた西郷隆盛が下野する明治6年10月から西南の役が始まる明治10年2月まで。明治政府が近代国家の治安を固めるために設置した警視庁では倒幕の主勢力となった薩摩を中心に多くの武士崩れの警察官が採用されていた。一方で戊辰戦争で敗者となった会津藩や北陸・東北諸藩の親藩の武士たちは薩長中心の政体への怨恨を捨てられずに燻り続けている。こうした中、元南町奉行の駒井相模守、八丁堀同心の千羽兵四郎、岡っ引の冷や酒かん八、といった旧幕府の治安部隊が、反薩長勢力に加担しながら、時の大警視・川路利良と部下の警官たちに知能戦で一泡吹かせる、といった筋書きである。
 幕末の尊皇攘夷を巡る諸藩の確執、一方で欧米列強の侵略を防ぐための富国強兵と天皇親政による国家統一に向けた中央集権化、残存する武士道精神の迷走と反政府運動、こうした時代の渦の中で、明治初期の風俗を見事に絡ませて描きながら山田風太郎の筆はミステリータッチの物語を紡いでいく。そして最後に立ち現れて来るのは国家建設の美名の下に権謀術数を弄する川路利良が、同郷薩摩藩の尊敬すべき西郷隆盛を決起に追込んでいく手口の暴露が本作の山場となっている。18篇のオムニバス風の中編で構成されているが、それぞれの登場人物が別の中編の主役になったり、非常に有機的な構成となっているのも目が離せず一気呵成に読み進んでしまう原因だろう。
 渡辺京二が一見荒唐無稽なこの時代小説を絶賛するのには理由がある。渡辺は『坂の上の雲』に代表される司馬遼太郎史観を否定する。明治以降の近代化は江戸時代の否定とそこからの脱却によって成立したものではない。山田風太郎が描くように明治維新革命の中で旧体制との様々な軋轢や確執といったダイナミズムの中に生まれ来たものである。従って、渡辺京二にせよ山田風太郎にせよ、共通して日本近代への疑念を払拭できずにいるのだ。最終盤に山田風太郎は川路利良と対峙する駒井相模守にこのように語らせている。
「川路さん、しかしな、権謀によってそういう間に合いの国を作っても(中略)いっておくが、そりゃ長い目で見て、やっぱりいつの日か、必ず日本にとりかえしのつかぬ大不幸をもたらしますぞ。」
 これはまさにこれより六十余年後、山田風太郎が太平洋戦争の戦火に逃げ惑う中で得た確たる歴史観であるに相違ない。そして、戦後、水俣病やフクシマ原発事故を経た現在も、その本質は変わっていない、とは言えないだろうか。
                          (2021年3月21日)

『ナニカアル』 ― 桐野 夏生 著

 刈草の黄なるまた/紅の畠野の花々/疲労と成熟と
 なにかある……/私はいま生きてゐる

 表題は林芙美子のこの晩秋の詩の一節より採られている。枯野に咲く花とは彼岸花だろうか、あるいは鶏頭か。それは芙美子にとって戦場に咲いた「徒花」であった。
 昭和13年9月、従軍作家として漢口攻略戦一番乗りで名を馳せた芙美子は、昭和17年10月から翌年5月まで、陸軍報道部の徴用により、シンガポール、仏印、ジャワ、ボルネオ等に南方視察を行った。前年太平洋戦争に突入し思想統制の厳しくなったこの時期、『放浪記』で貧困に喘ぐ民衆の共感を得たうえに、その後ヨーロッパ放浪を経て「敵国」英米文化に開眼した芙美子に対し軍部が「懲用」を課した、と見てもおかしくない。
 川本三郎や関川夏央、更には高橋源一郎といった作家達の評伝を通じて私たちの林芙美子像は形作られているが、誰しもがある疑問を芙美子に抱いている筈だ。背丈も低く小太りでお世辞にも美人とは言えぬ彼女が何故かくも恋多き女であったか、ということ。更に加うれば、複雑な家庭と最低の経済状況に育ち庶民の生活を活写した作品を世に送りながら何故もかくも毀誉褒貶に晒されたのか、という疑問である。
 江戸川乱歩賞でミステリー作家として出発した桐野夏生が本著で挑戦したのは、現実に起きた事件、実際に生きた人物について、残された史実、報道された事実あるいは当事者の手記など関連する全ての資料を再構成しながら、想像力によってその当事者の置かれた心理、感性、動機を詳らかにして読者に追体験せしむる実験だった。これは既に2000年新潟県柏崎市で起きた少女監禁事件に触発された『残虐記』で用いた手法でもあった。桐野夏生は林芙美子に関する凡ゆる資料を読み込み、更には『浮雲』をはじめとした林の作品に隠された「真実」を炙り出すことで、私たちが内的に体験しうる林芙美子を生み出した。そして私たちの抱いていた林芙美子の謎もそれによって氷解するのだ。
 桐野夏生は『残虐記』の中で主人公にこう語らせている。「想像とは、現実の中にある芯を探り当てた瞬間から始まる。現実という土壌なくして、想像がそれのみで芽吹くことはあり得ない。」と。まさに本著は、林芙美子という「現実の芯」から再構成された恋愛ミステリーと言っていいだろう。林芙美子が夫ある身ながらにして、この南方視察の際にある新聞記者との不倫ランデブーを試みたことはある程度、事実に基づいているようだ。これに新聞記者の掛けられたスパイ容疑、芙美子自身に対する軍部による思想弾圧の脅威、図らずも芙美子の身に起きた妊娠……といった「現実の芯」から呼び起こされた想像の中の「真実」へと読者をグイグイと引っ張っていく、その手腕はまさに桐野夏生の真骨頂とも言うべきであろう。
 かつて『逝きし世の面影』の渡辺京二が『幻影の明治ー名もなき人びとの肖像』の中で司馬遼太郎の歴史観と歴史小説を厳しく批判した上で、山田風太郎の『明治小説全集』(ちくま文庫全14巻)の作品群を絶賛していたことを不思議に感じた事がある。作家が史料を漁った上で事実と事実の間隙を想像で埋めることは致し方のない事であるにせよ、司馬遼太郎と山田風太郎との間には、その「読み込み方の差」がある、と言うのだ。桐野の言葉を借りれば「現実の芯」の喰い方の相違、と言う事だろう。司馬史観が明治期以降を江戸期と切り離した近代化と捉えているのに対し、山田史観は江戸・明治の葛藤の力学の中に捉えている差、であると思われる。要は読者の経験や知見にとって何れにリアリティを感じ得るか、という違いかもしれない。
 本著は私たちの感じる「リアリティ」の所在を、想像力の可能性の中に照らし出してくれる貴重な一冊、といえよう。是非おすすめしたい一冊である。
                              (2021年3月7日)

『族譜・李朝残影』 ― 梶山 季之 著

 1975年、僅か45歳にして夭折した作家・梶山季之は膨大な数の作品群を遺した。それは『黒の試走車』に代表される経済小説から社会小説、探偵小説、ミステリー、ポルノ小説に至るほぼ凡ゆるジャンルを網羅していると言っていい。週刊誌創刊ブーム時にフリーライターとして初めて「トップ屋」の称号を与えられてより、日夜分かたず原稿を書き漁った(その過労が命を縮めた、とも言えようが)作家の風貌は「大衆作家」に近いものかもしれない。だが、彼は朝鮮総督府の技官の子として京城(ソウル)に生まれ多感な青春を植民地時代の韓国で過ごした。本著に収められた三作(他に植民地での敗戦の一日を描いた「性欲のある風景」)は、こうした植民地・朝鮮における日本人と朝鮮人との間の複雑な民族意識の交錯を描いた純文学といえよう。
 『族譜』は「創氏改名」を強要された両班(李氏朝鮮時代の支配階級)の父とその娘、そして植民地政府の下級役人としてこれに対峙する日本人の物語である。族譜とは700年にも亘り営々と書き継がれてきた一族の過去帳であり、この両班の父親は先祖への忠誠心から創氏改名を拒み続ける。若い日本人の役人は職務上その説得にあたるものの、植民地政策として日本人名を朝鮮人に強要することの無意味さに疑問を抱き、密かにこの親娘に支援の手を差し伸べるのだが、遂に様々な陰湿な政治的圧力に屈した父親は創氏改名を約しながら自ら命を絶ってしまう。
 『李朝残影』は朝鮮で創作する日本人画家がふと飲み屋で知り合った朝鮮人学者を仲介に高級妓生の伝統的な宮廷舞踊を見て、幾度も拒絶されながらこれを絵に描こうとする物語である。気位の高い妓生の被差別意識を乗り越えながら、今や潰え去ろうとする宮廷舞踊の最後の舞手を画家が漸く描き終えた時、元軍人であった画家の父と妓生の今は亡き父親の「三・一騒動」(朝鮮民族による独立運動の契機となった事件)を巡る数奇な運命が二人の間を割き、画家はその絵のために憲兵の拷問を受けることになる。
 私は「植民地二世作家」と称される梶山季之のこれらの作品を読みながら、敢えてエリートへのレールを自ら分ち植民地時代のビルマの下級警察官となったイギリス人、ジョージ・オーウェルを思い起こしていた。インド植民政府の官吏の子として生まれたオーウェルが自ら父と同じ植民地官吏となることで彼が経験した支配・被支配の民族間の心理的葛藤が、まさに梶山季之の「朝鮮物」の主要なモチーフとなっている。幼児・青春期を植民地に身を置くことで被支配者の痛みに、そして哀しみに共感しうる感性を育んだことが、後の作家としての梶山季之の持ち味となったことは疑うべくもないだろう。時にそれは虐げられて、失われ衰亡していこうとする最期に放つ強靭な光芒としての美しさを現出させることを、梶山季之は発見したのだ。
 かつて若かりし頃、日韓合作映画の『李朝残影』を見たことがあるが、滅びゆく李朝宮廷の装飾美しか印象が残っていない。おそらく映像という手段によるよりも梶山季之の描写力の方が数倍の美しさで読者の心に迫り来るに違いない。没後30年を経て2007年に復刊されたこれら彼の作品群は未だ色褪せない。
                             (2021年2月19日)

『水の中の八月』 ― 関川 夏央 著

 内なる祖国へのアンビヴァレントで複雑な思いを秘めた在日の人々の青春群像を描く7編の短編集である。
 表題作「水の中の八月」は大学受験を控えた高三の夏、地方都市のある高校の水泳部に在籍する「ぼく」と親友の新井に持ち上がったひとつの出来事の物語だ。「ぼく」は同級生の橋本礼子から新井との仲をとりもってくれと頼まれる。新井は大きなパチンコ屋を4軒も経営する家の息子で高級車を乗り回して女をモーテルに連れ込むような派手な生活をしており、礼子の事など鼻にもかけない。礼子は名代の造り酒屋の一人娘で親の敷いたレールから逸脱するという一途の激情に駆られ、新井の子供を身籠りたいという突飛な妄想を抱いている。そんなある日、礼子の呼び出しに応じて河川敷に来てみると車の中で抱き合う新井と礼子の姿を目撃する。新井と「ぼく」を天秤にかけようとする礼子の演出を見破った二人は、彼女の期待に沿うべく礼子の目前で意味無く殴り合いの喧嘩をする。
 良家の一人娘として育てられた礼子は、在日である新井に「外国人」としての異質な血への憧憬を感じている。日本の地方都市の中で有形無形の差別を受けながら育った新井には、そうした憧憬にでさえ自らを特別扱いにする嫌悪感が付き纏う。忖度もなく無意味な殴り合いに応じる「ぼく」にこそ新井は本来の友情を感じることができるのだ。新学期の始まる九月、新井は日本名を捨ててパクという本名を名乗ることを「ぼく」に告白する。
 同調圧力の強固な日本では、なかなか差別の問題は意識化されにくい。そんな社会に置かれた被差別者の意識が一見非常に捉え所なく見えるのも、まさに多様性への許容度が低いことの証左に他ならないだろう。たとえ異質な他者への畏敬や憧憬としてでさえ、差別される側には「排除」のいち様式にしか映らないのだ。『かもめホテルでまず一服』に描かれた世界放浪を経て異文化に在る人々の多様性に目覚めた関川夏央が『ソウルの練習問題』での深い洞察を経て、こうした日本文化に内在する多様性の抱える感情の機微に到達しえたことは、少し大袈裟な言い方をすれば日本文学の新たな地平を拓いたとも言えるのではなかろうか。関川夏央の眼は、在日の人々の「あらまほしき故郷」を超えて、同一化社会から様々な局面で疎外された人々の「拠り所」の在り処を教えてくれているような気がする。いずれの関川夏央作品も、郷愁にも似た安らぎを感じさせてくれるのはそのためだろう。
 『ソウルの練習問題』を読んでから、関川夏央は何故かくも韓国・朝鮮に拘り続けるのかをずっと疑問に思っていた。(明示されてはいないものの)関川の故郷・新潟を舞台にした本作品群を読んでその疑問は氷解した。新潟は日本海を挟んで朝鮮半島と対峙している。1950年代後半より始まった北朝鮮への帰還事業も新潟港からの出港から始まった。関川夏央自身を含め、これらの物語の主人公たちにとって在日の人々の抱えた悲喜こもごものドラマは決して他人事ではない身近なテーマだったに違いない。
 コロナ禍で同調圧力が強まるこの時代にこそ、こうした内面の多様性の辿った美しくも儚い軌跡をなぞってみることも、また無意味なことではないだろう。
                             (2021年2月9日)

『鯖』 ― 赤松 利市 著

 赤松利市が新聞の人物紹介欄で取り上げらたのは半年ほど前のことである。偏屈さを思わせる深い皺の刻まれた貌に、鋭い眼光を隠すかのような色丸眼鏡の風貌の写真、人生の成功と破綻の様々の浮沈を経て家族も捨て住所不定となり、漫画喫茶で書き上げた初の小説が山本周五郎賞候補となったのが62歳。翌年大藪春彦賞を受賞して漸く定住の場所を得た、という記事を見て早速購入したのが、この『鯖』であった。

 時代に取り残されたように未だ一本釣りに拘る漁師船団の「海の雑賀衆」五人衆の一番の若手シンイチ三十五歳が主人公。六十五歳の船頭以下、時代の遺物となるべくしてなったような曲者揃いの中で、シンイチは「不細工。醜男。しかも小男。小男のくせに猫背」であって母親でさえ彼の事を「鯖餓鬼」と蔑み産んだ事を悔やむのを引き摺るほどに極度の女性コンプレックスに呪縛されている。
 網漁の漁場から閉め出された彼らは船頭が買い取った小さな日本海に浮かぶ小島で共同生活をしながら、ここを拠点にオンボロ漁船で一本釣りの漁に出る。網漁とは比較にならない程鮮度の良い高品質な魚に目をつけた女将の割烹に一日の全釣果を引き渡すことで漸く彼らのその日暮らしの生活が成り立つ。だが、やがて彼らの釣り上げた鯖で作られたヘシコを中国に輸出しようとパートナーであるIT企業社長の財力を背景に一人の蠱惑的な中国系カナダ人女性が事業化に乗り込んでくる。
 シンイチたち五人の時代錯誤の漁師たちはこの女実業家の仕掛けた資本主義の罠に次第に絡め取られていく。個性的ながらもある意味純粋なこの五人衆は長年の漁で培った紐帯を守ろうとするが、仕掛けられた金、物欲、色欲に翻弄されながら抗争し、自滅しあるいは女実業家に馴化されていく。時代に取り残されながらもピュアな男たちの生き様に感情移入し、いつしか彼らに声援を送り始めている読者は、次第に爽快な気分を突き抜けて、われわれ自身を取り巻く現実社会の暗部に沈んでいくことになるだろう。そして最後は勝者である筈のシンイチさえもが……。
 シンイチほど強烈ではないにせよ誰しもが抱いている劣等感、コンプレックスが(時に第三者によって作為的に)反転した時の過剰な高揚感、あるいは全能感の危うさというものを私たちは経験的に知っているし、それによる人生の破綻さえ経験する場合もある。あるいは作者の最大の主題はそうしたコンプレックスの反転による驕りがもたらす醜い自己破壊、にあるのかもしれないが、これも人生の紆余曲折を経験した作者ならではの視座だろう。いずれにせよ、深い経験に裏打ちされた登場人物の性格作りはこの作家の最大の持ち味と言えるだろう。
 赤松利市は亡き車谷長吉を尊敬しているという。二人の経歴はある意味非常に似通っているようでありながら大きな相違がある。車谷は若くして文学を志し一旦挫折して様々な職業を彷徨いながらも文学に回帰したが、赤松は様々な職業と経験を循環しながら次第に蟻地獄に堕ちるように文学に埋没していった。だからこそ62歳でこのデビュー作が山本周五郎賞候補となって以降の赤松は一日15時間を執筆に充てるような旺盛な執筆を続けているのだ。様々なものが入り混じった坩堝のように蠢く赤松の経験の厚い堆積が、これからも私たち読者を新たな気づきの世界に誘ってくれることだろう。

 最後に、赤松は相当の釣り好きのようだ。釣り、魚好きの読者には垂涎ものの一冊である。

                       (2021年1月19日)

『祐介・字慰』 ― 尾崎 世界観 著

 私は「クリープハイプ」というロックバンドもそのボーカル&ギターの尾崎世界観も全く知らなかった。毎週金曜夜9時過ぎにNHKラジオでやっている高橋源一郎の「飛ぶ教室」に尾崎世界観がゲスト出演していて、高橋源一郎が絶賛しているのをたまたま聴いてこの本を手に取ったに過ぎない。
 主人公の祐介(尾崎の本名)は売れないミュージシャン。スーパーでバイトをしながらチケット責任販売縛りのある小さなライブハウスでバンドを組んで半ば持ち出しで演奏活動を続けている。いつかスポットライトを浴びる日を夢見ながらも進展のない耐乏生活に鬱屈する毎日。怒りですぐキレては小さな暴力事件を起こし、あるいは巻きこまれ、数少ないファンの女性とは心通わぬセックスを繰り返す。……と書いてみるとただの屈折した青春物語のようなのだが、実はそんな汚れた日常を常に客観的に見つめている「もうひとりの祐介」がいる。彼はその実、とても純粋、無垢で心優しく豊かな感受性を秘めている。現実の彼が堕落した現実に身を委ねれば委ねるほど、それと距離を保った彼の純粋な感性が際立っていくのだ。私はこの物語を読みながら、中原中也の「汚れちまった悲しさに……」の詩を思い起こしていた。
 例えば、厳しい現実を突きつけてくるライブハウスの主人に祐介は無論暴力的な反発を抱くものの、説得力ある説示に半ば感化されその人柄に惹かれてさえいる様子が伺える。バンド仲間、数少ない観客、ピンサロ嬢の彼女といった登場人物との関係性の中で祐介は常にこのアンビヴァレントな感性の中を揺れ動き、それが祐介自身のユーモラスな魅力を引き立たせている。また、パッチワークのように細分された状況描写の連続から、祐介という人物像を立体的に描き出していく尾崎世界観の描写力、表現力にも唸らされる。
 物語の終盤、祐介はある事件に巻き込まれ、満身創痍のまま半裸体で街を彷徨することになるのだが、その惨めな自身の姿を尾崎世界観はこう表現している。
「その姿は、子供のころに見た特撮ヒーローものの怪獣によく似ていた。主人公をギリギリのところまで追い詰めた挙句、結局は当たり前のようにあっさりとやられてしまう。いつもそんな怪獣の方に感情移入していた心優しい少年は、大人になった今、生まれて初めてブルマーを穿いて見知らぬビルの非常階段に立ち尽くしている。」
 激しい暴力を受け半ば放心状態に陥りながら、この後、祐介は「幽体離脱」のような経験をすることになるのだが、これは他者と心理的な距離を取ることによってのみ自らの純粋性を保全しようとする若者の感性に強い共感を呼び起こすに違いない。
 1月20日に決定する第164回芥川賞候補に、尾崎世界観の『面影』がノミネートされている。本著を読んで、その受賞を確信する者の一人ではあるが、芥川賞の如何を問わず、今後も独自の「世界観」をこの著者には追求してもらいたい、と節に願ってやまない。第二の辻仁成とならんことを。
                      (2021年1月14日)

『サガレン ― 樺太/サハリン 境界を旅する』― 梯 久美子 著

 かつて、旧住居跡にあったブリュッセルの「ルネ・マグリット美術館」(現在は別の場所に移転)を訪ねて驚かされたことがある。彼の超現実主義的絵画のモチーフを構成するオブジェの殆どがこの家の中に存在している、ということである。マグリットは妻が日々調理するキッチンにキャンバスを据えて作品を描いた、と言われている。超現実的着想の導火線は日常目にする身近な具象の中に存在している、ということを思い知らされたのだ。
 宮沢賢治の詩集『春と修羅』に収められている「青森挽歌」は、前年に亡くなった妹・とし子の死を偲んで花巻から北方へと旅立った賢治がその旅路で綴った詩であるが、その冒頭近くに「わたくしの汽車は北へ走っているはずなのに/ここではみなみへかけている」という一節がある。東北本線を北上しながら生起したふと自らが南下しているのでは、という錯覚を多くの評者は、とし子への喪失感を方向感覚の喪失として表象したものと考えている。しかし、著者は北上する東北本線が青森・夏泊半島の小湊駅を過ぎて浅虫温泉を通過する辺りの区間で「現実に」南下していることに着目するのだ。事実「青森挽歌」に描かれる情景描写はこの近辺の風景に近似している。
 実は両親の故郷を青森に持つ私自身、幼少の頃上野発の寝台特急に乗って帰郷する朝方、浅虫温泉の近辺を通過しながら同じような幻惑に囚われた経験がある。これは多分、宮沢賢治の辿った旅を実際に擦ってみなければ発見し難い真実のひとつであろう。難解な賢治の詩を、目に見えない抽象的な暗喩あるいは象徴の集積と捉えるのではなく、賢治が現実に目にした風景より感得された「心象風景」として読み直すことで、新たな宮沢賢治論へ誘なおうというのが本著の主題と言っていいのかもしれない。因みに「サガレン」とはこの時、宮沢賢治の旅の目的地であった樺太・サハリンの当時の呼称である。愛する妹・とし子の死を受け入れ難い賢治は、とし子の死より8ヶ月後の大正12年7月から8月に掛けて樺太南部を彷徨しながら多くの詩を残した。
 こうした主題を核とする第二部の前に「鉄道オタク」でもある著者は樺太南部から島の4分の3を北上縦断する鉄道旅の紀行文を第一部として記している。現ロシアとの間で幾度も国境線の変更のあったこの島の不幸な歴史を辿りながら、著者を乗せた寝台特急は北上していく。2017年冬(第二部の旅は2018年夏)、実際に経験した鉄道旅行での見聞、そして過去にこの極地を同様に旅した、林芙美子、北原白秋、そしてチェーホフらの遺した紀行文から、隠された歴史を綿密な調査によって掘り起こしていく見事な筆致は、まさにノンフィクション作家としての面目躍如といえよう。
 旅はよく人生に喩えられる。人生もまた旅ならば、宮沢賢治という詩人の人生を辿るのも旅の一つの大きなテーマとなろう。紀行文という体裁をとりつつも詩人・作家たちの人生の内奥に肉薄する優れた評論でもある、というのが本著の拓いた新境地ではないだろうか。旅といえば、その土地に所縁の作家の一冊を携えて行く、そんな楽しみ方を教えてくれる一冊である。
                     (2021年1月5日)

『二ノ橋 柳亭』 ― 神吉 拓郎 著

 冒頭の一編「ブラックバス」を読んだだけで、この作家が「短編の名手」であることを確信した。神吉(かんき)拓郎という作家と今まで巡り会わなかったことを悔やみさえした。神吉の珠玉の短編集として編まれた文庫版『ニノ橋 柳亭』を新聞書評の片隅に見つけなければ彼との邂逅は生涯なかっただろう。それ程に、既に1994年に65歳で鬼籍に入った作家の知名度は高くないかもしれない。81年「ブラックバス」「ニノ橋 柳亭」で直木賞候補、83年作品集『私生活』で直木賞を受賞したにも拘らず、である。
 何処とも何時とも知れぬある別荘地の湖畔の灌木に隠れた秘密の釣り場。そこでブラックバスとの駆け引きを楽しむ孤独な青年。戦争に行って帰らぬ叔父との釣りを巡る交歓の記憶。その叔父の悲恋の残り香。淡々と短い文章と会話で構成される短編の中に、隠されたドラマの断片が無駄なく散りばめられていく。そして「その時」が敗戦を迎えたあの暑い夏の一日であること、そして青年に刻まれた深い戦争の傷跡を余韻に残すかのように掌編は終わる。削ぎ落とした痩身の短編の中に無限に広がる想像のドラマを読者自身の心に呼び起こす、そんな珠玉の短編のいくつかが本著に収められている。
 こうした無駄のない構成力は放送作家として出発した神吉の持ち味であるのかも知れない。その意味で、向田邦子や久世光彦の作品に通ずるものがある。そして彼らに共通するもう一つの要素は、東京の山手に育った洒脱さにある。麻布に生まれ旧制麻布中学から旧制成城高校へと進んだ神吉は向田や久世と同様に戦前の山手・中産階級の趣味や倫理観を内面化しており、それが作品のモチーフや主人公の美意識の中に活かされているといっていいだろう。
 たとえば表題作の「ニノ橋 柳亭」は文字通り麻布十番・ニノ橋先の路地裏にある小さな割烹の話だ。食味評論家が雑誌で紹介したこの店を巡る謎が、そこに描かれる料理と共に読者の想像を掻き立てる。そう、この読者の想像力こそ神吉がこの短編に込めた最大のテーマであることを読み終えて始めて知ることになるのだ。そこには美食ブームに湧く巷間への皮肉と、本物を愛することの真髄が、神吉によって暗示されている。
 神吉は俳句にも造詣が深かったらしい。短編小説に集約され研ぎ澄まされたエッセンスは、ジャコメッティの塑像のように俳句へと凝縮していったに違いない。諧謔と想像力を掻き立てる神吉の作品は「水枕 ガバリと寒い 海がある」で有名な西東三鬼の俳句を思わせるものがある。戦争の惨劇を、傷を負いつつさらりと躱してしまう深みと哀しさは、飽くまでも作品の余韻の中に隠されている。
 神吉拓郎の隠れたファンは少なくないようだ。その一人、大竹聡編による『神吉拓郎傑作選1・2』も神吉の広い裾野を知る上では好著かもしれない。
                        (2020年12月18日)

『ヒキコモリ漂流記』 ― 山田ルイ53世 著

 芸人の書いたライトノベルズなどと思ったら大間違いだ。これは山田自身が経験した壮絶な「ひきこもり体験記」である。神童と呼ばれた少年期を経て、地元兵庫の中高一貫有名進学校に進んだ後、中学2年生から20歳に至る6年間のひきこもりを経験する。中卒から一念発起し大検合格、国立大に入学するも中退、という波乱万丈の半生。高卒の公務員の父親、男三人兄弟の真ん中、非行に走った兄、大人の顔色を伺いながら「神童」を自演する小賢しい子供、見栄で進学した有名校、金持ちの集まるスノッブな校風への違和感、几帳面過ぎる性格、父親の浮気と家庭不和……ひきこもりの遠因は様々準備されていたと考えられるが、直接的な引き金は、案外単純なものであるところが実に可笑しい(著者の筆力の魅力をここで満喫して欲しい)。
 たとえひきこもりを体験したことがない読者でも、山田の壮絶な人生経験のいくつかに近似した経験を自ら顧みて「自分ももしかすれば、あの時……」と感ずるであろうし、ましてやひきこもり体験者は深い共感を呼び起こされることだろう。かくして山田に自己投影して追体験するように本著に惹き込まれていくに違いない。そして読後に残るものは、果たして「山田のように踏み外さずによかった……」であるのか「山田のように自分も立ち直れるだろうか……」であるのか。
 山田は最後に、ひきこもり体験についての現在の感想を尋ねるインタビュアーたちが一律に「そのような6年間があって、今の山田さんがあるのですね」という言葉を投げかけてくることへの反感を記し、あの6年間はその後の自分の人生にとって全く意味の無い時間だった、と切り捨てる。ただ、人生にはそんな無駄な時間があってもいいのでは、とも。ひきこもりの辛い体験をしようがしまいが、結局人生なんて人それぞれ相対的なものだから、自ら軌道修正し、あるいは総括するしかない、という諦念から生まれた考え方かもしれない。
 現在、NHKが「ひきこもりキャンペーン」で様々なドキュメンタリーやドラマを放映してこれらを観る機会が多いが、ひきこもりにも個別の事情に応じた様々な位相が存在し、これを一括りで語ることの難しさを教えてくれる。山田が最後に語りかけたかったのもその一点なのかもしれない。ただ、総じてこうした番組を観て感じるのは、ひきこもりの当事者たちが共通して皆ないい笑顔を持っている、ということだ。果たしてひきこもりを体験したことのない(今まで無難にその危機を回避してきた)私たち自身が、彼らに負けない笑顔を持っているだろうか。本著がひきこもりを「我がこと」として考えるための一助になることを望みたい。
                          (2020年12月2日)

『パリ・ロンドン放浪記』 ― ジョージ・オーウェル 著

 多くの読者はジョージ・オーウェルのことを『動物農場』や『一九八四年』で全体主義のディストピアを描いた空想作家だと思っているかもしれない(私自身もそうだった)。しかしそんな見方を一変させてくれたのが(本グループでも既に紹介済みだが)川端康雄『ジョージ・オーウェルーー「人間らしさ」への讃歌』という優れた評伝だった。中流上層階級に育ち、パブリック・スクールのイートン校を卒業しながらも、多くの仲間たちがケンブリッジ、オックスフォードに進学するのを横目に見て、自ら志願し父と同じ植民地経営の一翼を担う官吏(インド警察の警官)として19歳でビルマに赴任するところから「マージナル・マン」としてのオーウェルの生涯が始まる。
 帝国主義を嫌悪しつつもその体現者たる職業に在る矛盾に始まり、退任後の放浪生活での最下層の人々との交流、スペイン内戦への参画、といった極限に身を置くことで得られた実体験は、世の中の矛盾に瞠目する観察者としての眼を育てた。そう、つまり彼は優れたルポライターであったのだ。彼の遺した社会評論(それは書評、文化評論から政治批判まで広範に亘る)は「平凡社ライブラリー」に4冊の「オーウェル評論集」で抄訳されているが、川端康雄の評伝で引用されているそれらの断章は実に魅力に満ちたものだ(例えば「象を撃つ」や「絞首刑」といったビルマ時代の経験をベースにしたエッセイ)。そこには支配するものとされる者との間の微妙なこころの機微の交歓、犯罪者や下層民の醸し出す人間性のディテールが見事に筆写されている。
 とりあえず岩波文庫から出ている『パリ・ロンドン放浪記』を紐解いてみることにしよう。これはオーウェルが4年半勤めたインド警察を退職後、作家修行を兼ねて24歳から3年近く放浪したロンドン、パリの貧民街での貧窮体験をもとに書かれた作品である。パリではレストランの皿洗いをしながら極貧生活を続けて、最下層に生きる人々の苦境に負けぬ知恵と生命力をユーモラスに描きだし、ロンドンでは貧民救済施設を転々とする放浪者たちと一緒に生活しながら、彼らの生態と秘められた人生の裏側を浮き彫りにしていく。(私自身も学生の一時期経験したことだが)残り一週間を一千円で生活しなければならない、といった極限に身を置いた経験のある者には、何処か哀しくも懐かしい体温の宿った作品である。
 ロンドンの貧民街にいたボゾという大道絵師の話が印象的である。ペンキ屋をしていた彼は恋人の死で酒浸りとなった挙句、足場から落ちて障がい者となり大道に絵を描いて僅かな投げ銭を得ている。彼は教養もあって自分の貧しい境遇を決して恥じてはいない。ボゾは言う。金があってもなくても同じ生活ができる。本を読んで頭を使っていれば同じことだ。ただ、こういう(貧乏な)生活をしているからこそ自由なんだ、と自分に言い聞かせる必要はあるがね、と。様々な人生を抱えて「転落」した最下層の人の中にもこうした「哲学」が育まれるのだ、ということにオーウェルはこころ打たれる。
 例えば、ピカソのようなアブストラクト絵画を描く画家でさえ、その具象デッサンは精緻で見事である。いわばこうした細部に目を凝らし描く力があってこそ初めて抽象絵画が生まれ得るのだ。『動物農場』『一九八四年』の寓話を描き得たオーウェルもまた、社会の諸相を具体的に描き尽くした筆力こそがその基礎にあるといっていいだろう。社会派小説家を目指していた開高健が、自伝的小説『青い月曜日』の中で、オーウェルを高く評価しているのは、決して奇遇ではない。まさに、開高もオーウェルを目指していた一時期があったはずだ。私にはオーウェルが「絞首刑」で描いた死刑犯罪人と、開高が「ベトナム戦記」で描いた公開処刑されるベトコン少年とが重なって仕方がない。
 コロナ禍の今、私たちが漠然と抱いている全体主義再来の不安の中で『一九八四年』が多く読まれているということだが、その具象素材としてのオーウェルのルポルタージュにも是非目を向けてもらいたい。
                        (2020年11月20日)

『類』 ― 朝井 まかて 著

 森鷗外、49歳の時に書かれた『妄想』は、その4年前に千葉県夷隅郡大原町日在(ひあり)に買い求めた別荘「鷗荘」(おうそう)が舞台になっている。白髪の老人に自らを仮託した鷗外が、ドイツ留学時代の哲学的遍歴の果てに陸軍軍医総監という世俗的成功の仮面と実存との齟齬に揺れた自らの半生を、外房の海岸を臨む小屋で「回想」するというフィクションだが、60歳で生涯を閉じるその晩年近く、鷗外は子供達を連れてこの鷗荘に屢々遊んだ。幾度かの建て替えを経て、鷗荘の跡地には現在二階建ての白堊の瀟酒な洋館が建っているが、この地で平成3年にひっそりと80歳の生涯を閉じたのが、鷗外の三男坊、森類である。
 鷗外には最初の妻・登志子との間に長男・於兎、再婚した妻・志げとの間に長女・茉莉、次女・杏奴(次男・不律は早世)、三男・類の子らがあった。類は鷗外49歳の時の子、異母兄・於兎とは21歳の年齢差があり、また登志子との確執もあった事から、晩年の鷗外は類を溺愛した。類にとって鷗荘はそんな父との数少ない貴重な記臆の場所だったのだ。
 文豪の末子として生を享けた類は、父親の篤い庇護と(遺された著作権収入を含めた)財産に護られ何の苦労もない、生活力の全くといっていい程無い凡才として育つ。未亡人志げはそんな類の才能を何とか引き出そうと最大限に努力するのだが、類には天賦の画才も文才もましてや商才も無い。常に文豪の息子という世間の色眼鏡に晒されながら、時にその無才ぶりを愚弄されつつも、鷗外に恩を受けた多くの人々が類に手を差し伸べるのだが、その才能が芽を開くことはない。
 親子・親族の確執と悲哀をテーマに描く朝井まかてが森類を題材にした小説を書いたのもムベなるかなと思わせる。実は4年前、鷗荘の近くに書庫兼書斎を得てその存在を知ってより、山崎國紀『鷗外の三男坊ーー森類の生涯』を紐解き、更に唯一と言っていい森類の著書『鷗外の子供たちーーあとに残されたものの記録』を読んで、私自身、森類に魅了された者の一人なのであった。森類の記す文章の素直さ。人を疑うことも、他人と競うことも自らを取繕うことも知らぬ衒いのない実直な森類の文章は読む者の心を打つ。そしてそれが時に仇となって、その後作家となった二人の姉、茉莉や杏奴との確執を生むことになるのだが……。朝井まかては、そんな森類の人間的な魅力と姉弟間の確執を見事に描いていく。私を含めて多くの人々は、例え鷗外のような偉大な親ではなくとも「親とは乗り越えられないものだ」という意識を少なからず抱いていることだろう。そんな親に対する諦念と敬愛の入り混じった複雑な心理を、姉弟の鷗外、志げへの尽きせぬ思慕を軸に、恰もそれを競うかのような姉弟の愛憎ドラマがなぞっていく。
 偉大なる父親を負った波乱万丈の生涯を送る内に遺産の大半を失った森類が、唯一遺された財産である、この潮騒の届く日在の鷗荘の土地に終の住処として白堊の洋館を建てたのはその死の僅か2年前であった。鷗外の『妄想』に投影された鷗外自身の自己追求の厳しい老境の姿とは正反対に、父の愛情の追憶に満たされ、祝福された幸福な晩年だったに違いない。
                         (2020年10月30日)
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